自分を律するということ。


研修をさせようという大阪府知事の判断の前に、府の職員には「自分を律する」ことができていないという事実が先行していなければならない。
同時に、職員が(自分を)律しえているか否かという点での橋下氏の判断の是非、これは当記事だけではあきらかではない。橋下氏の目にとまった職員の姿勢や態度に「自分を律しえていない」ものが現にあるかもしれないし、逆に橋下氏の目を疑ってみなければならないのかもしれない。いずれにせよ、記事だけでは分からない。

自衛隊で職員研修を」 陸自信太山駐屯地視察の橋下知事
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080617/lcl0806171251000-n1.htm


大阪府橋下徹知事は17日、同府和泉市陸上自衛隊信太山駐屯地を視察、「自分を律することが公務員に必要」と感想を述べ、40歳代の職員を対象に自衛隊体験入隊を検討することを明らかにした。

 橋下知事はこの日、戦闘訓練や銃剣道訓練、市街地戦闘訓練などを見学。記者会見で、「新人ではなく、40歳代くらいの職員を対象に自衛隊での研修を検討したい」とし、「府庁の事務職にどっぷり慣れ親しんだ職員に、あいさつ、姿勢から学んでほしい。僕も含めて」と述べた。実現できるかどうかは分からないとしながらも、同日午後に開かれる部長会議で提案したいという意向を示した。

 同駐屯地では企業などを対象に2泊3日の生活体験を実施。体験には食費のみで参加でき、号令に従って気をつけや敬礼の動作をしたり、10キロ行進したりする。今年4月以降、府内や和歌山県の4社から約80人の体験入隊を受け入れた。また、今月24日からは、和歌山県岩出市の職員7人も、生活体験を予定している。

しかし、自分を律するとはどういうことか。律するという以上、想起されるのはモノサシ、基準であって、それがどこかにあるはずだ。
一般に、一つの組織があり、そこに関係する者を縛ろうと思えば、たとえば、定款や規約、あるいは就業規則、服務規程などなど、いくらでもルールがある。そうして、善し悪しは別にして組織のルールの一端ができあがる。

ところが、府知事が構想しているのは、これらとはちがう概念であらねばならない。
なぜなら、組織をある一つの意図をもって規律化しようとするのなら、府自身の基準によればよい。それだけのことだ。その際、職員がこれらに違反しているということなら、処罰する権力をもつ府は処分を断行することすら可能なのだから。
モノサシはあくまでも府自身のものであっても、それでもって職員を律することができる。仮に律することのまったくできないルールならば、それはあってなきに等しい、死文化したルールといえるわけだ。
そう考えると、先にのべたモノサシ、基準は氏の頭にこそある。それは、使用者である府と被用者である職員の間の就業や服務に関する一般的決めごとではなく、それを超越した何かだろう。その何か、剰余ともいえるものを橋下氏は職員に求めているといわなければならない。

けれど、そもそも自分を律するということは、その人だけのルールや規範が仮にあったとしても、そしてそれに則ったと自分で理解しているだけでは、それだけで自分を律したことにはならない。少なくとも他者も関係するルールがあってこそ、律し得ない状態とそれは区別ができる。客観化できる。そうでなければ、他者は、彼は自分を律したと認識できるはずはない。なぜなら、この段階では、そのモノサシを他者が共有していないのだから。ルールとはそもそも他者の存在を前提にするものだからだ。

橋下府知事の発言は、端的にいえば、就業規則、服務規程を超えたところに存在するはずの橋下氏の「基準」、先にのべた超越した何かを、第三者、ここでは自衛隊を介在させて共有していこう、共有させようという意思が働いていると考えざるをえない。
そこで、府職員の「自分を律することができない」状態から「できる」状態にかえうる何かとは何であるのかを、なぜ「律していない」のかその根拠をふくめて、少なくとも府職員には明らかにして同意をうる必要があるということだ。
まあ、われわれがニュースで知りうる範囲を条件に推測すれば、その何かとは、大阪府の「財政改革」に服従する精神であったり、忍耐できる心性、そして何よりも知事と一緒になってそれを推進する精神なのかもしれない。

しばしば世の企業では、新入職員を教育や研修と称して、非日常のなかに放り込み、集中した「精神教育」がおこなわれています。もちろん自衛隊への体験入隊というケースもある。
この限りでは、橋下氏の思いが世の資本家の考えるのと同水準だという以上のものを我々に示唆するものではありませんので、ある意味で平凡の域をでてはいない。
しかし、その上で考えるのは、報道が伝えるところによれば、我々には、少なくとも私には、自分を律するという点ではかなり遠い位置に立っているのが、ほかならぬ橋下氏ではないかという疑念。

むしろ公務員に望むのは、自分を律しうるか否かという抽象的問題ではなく、公務労働が住民を対象にしたものであって、住民に広義の「サービス」を提供するものだとすれば、日本国憲法地方自治法を公務員にしっかりと身につけてほしいということだ。
つまり、かつてスローガンになったこともある、憲法を暮らしに生かすということだ。公務員も、住民の側もそのアプローチの方向はちがうにしても、考えなければならない。
橋下氏は、これこそ強調すべきだった。でも、ないものねだりになるのかしらん。