鳩山邦夫という反語的存在

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080617-OYT1T00429.htm

 鳩山法相は17日午前11時から、法務省19階で記者会見し、「慎重にも慎重な検討を加え、数日前に私が死刑執行の命令を下した」と、緊張した表情で述べた。

 宮崎死刑囚の弁護人は、再度の精神鑑定と刑の執行停止を求める書面を法務省に提出していたが、鳩山法相は「再審が必要だという具体的な理由が主張されているわけでもなく、裁判でも完全な責任能力が認められている。慎重に調べて執行した」と説明した。

 2か月間隔の執行については「特に時期を選んでいるわけではない。正義の実現のために粛々と執行している」と強調。宮崎死刑囚らを執行した理由を問われると「妙な言い方だが、自信と責任を持って執行できるという人を選んだ」と答えた。
(「慎重にも慎重な検討を加えた」死刑執行に鳩山法相)

自らのべるように、まことに「妙な言い方」である。

この文脈にしたがえば、この法相の頭は、少なくとも死刑最初にありき、ということになる。死刑しか頭にない。
法相本人が命令を下す際、その命令が「妥当」であるかどうか、世論はもちろん注視する。執行に賛成となるかもしれないし、反対にもなるだろう。ようは、世論の反応を、法相といえどもあらかじめ知ることはできない。
そうした世論の反応いかんにかかわらず、この鳩山という法相がめざすのは、死刑を執行するというただ一点である。彼の言葉はそれを示している。彼の関心は死刑を執行するに集中する。
そうでないとすれば、彼の言葉を借りて表現すると、自信と責任を持って死刑を回避する選択もありうるし、それを公表することもまた可能なのだ。
つまり、鳩山氏の発言をみるかぎり、回避という選択肢を採ることができないという不可能性は少しも示されていない。ようするに、氏にとって、選択不可能性が少なくともなく、したがって(死刑の)実現不可能性もなかった。選択肢は死刑のみ。正確にいえば選択肢でさえない。

死刑執行人としての鳩山邦夫氏はまた、死刑は「正義の実現のため」という。
しかし、この場合の正義とは何か。犯罪を不正義だとすれば、その対概念なのだろうから、正義とは、断罪を示すにすぎないだろう。ようするに、正義=死刑を意味してはいない。

だから、この場合の「慎重にも慎重な検討」というのは、どのような正義を実現するか、そのための熟慮などというものではなく、そこにある種の躊躇が存在するとすれば、国民世論をいかにしてかわすか、そのための一応の抗弁を準備することに強い関心があったということなのかもしれない。
もっとも、鳩山氏の言葉を何度よみかえしても説得力のみじんも感じられないのだが。
この際、慎重の上に慎重をという意味を反語的に解釈されなければならない。