医療崩壊にたちむかう一つの試み。


医療というものを医療従事者と患者の共同の営為といってみたところで、医療(サービス)を提供する側と受ける側という非対称が現にあることは否定しえない。
つきつめていえば、この非対称性に、理不尽なとしばしばよばれる、クレームやふるまいが派生してしまう原因があるように思う。

こんな、たとえば医師と患者の関係を、なおいっそう不穏な側にひきつけてしまうものが医師不足を要因にした地域の医療崩壊だろう。
医師が不足すると、残った医師の負担は当然重くなる。医療従事者の負担はいっそう重くなる。
高じれば、専門科の閉鎖・撤退にもつながっていく。要するに、過重労働⇒退職⇒医師不足⇒過重労働⇒さらなる退職⇒過重労働という負の循環ができあがる。この循環を一回転させた最初の一撃は、医療費抑制策にもとづく医師養成数の削減にあった。

だから、このサイクルから抜け出すには、医療費抑制策を見直し、医師の増員にとりくむことを避けてはとおれない。医師を大幅にふやし、サイクルを断ち切らなければならない。その合意をまず国民全体で確認すべきなのだろう。

しかし、このサイクルの循環にはスピードというものがあるだろうから、そのスピードを遅くすること自体は現状でも可能なのかもしれない。
その一つの試みが記事で紹介されているのではないか。
http://kk.kyodo.co.jp/iryo/news/080401syoni.html (魚拓

この試みで、強く共感するのは、医療を供給する側と受ける側が共同してとりくんでいることである*1


冒頭で、医療の非対称性にふれたが、紹介されている取り組みは、この非対称性から生まれ出る諸問題を克服していく上で、運動論としてすぐれているのではないか。
もとより非対称を否定することはできない。しかし、供給側を需要側がそれぞれの立場で相手の立場を理解し、認め合うところから前進するように思える。共同するという、きわめて基本的な形態で、簡単なものだけれど。
私は、基本的といったが、それぞれの立場で相手の立場を理解し、認め合うというのは、実はなかなか困難なのかもしれない。
日本の社会運動、市民運動の歴史をみると、実際には分裂の危機に直面したり、分裂したり、あるいは反目しあう関係になった例が少なくないように、その歴史は、一致点で共同するという簡単な原則を貫くことがいかにむずかしいのかを示している気がしてならない。
だから、なおいっそうこの記事の伝えるとりくみに期待を寄せるのである。

記事はこう伝えている。

守る会は、安易な時間外受診が一因と分析し「コンビニ感覚での病院受診を控えるようにしませんか」「こどもを守ろう、お医者さんを守ろう」と呼び掛けるビラを配布。医師増員を県に求める署名も、1カ月で約5万5000人分集めた。
 守る会の代表で、3児の母である丹生裕子さん(37)は「県の対応は期待外れだったが、市民に丹波の医療の現状を知ってもらえた。自分はどう行動すればいいか、考えてもらうきっかけになったのではないでしょうか」と言う。

医師の過密労働の実態を考えると、休日や夜間の受診を他の時間帯に置き換え可能なら、置き換えてみませんか、というよびかけはおそらく正しい方向だろう。休日や夜間はなおさら医師配置は薄くなるからで、それだけ医療の安全と安心を危うくしかねない。

そこで、重要だと私が考えるのは、よびかけに無反応な人や反対する人を排除しないということである。取り組みの進行にしたがって、無反応や反対を克服していく立場にたつことがこの運動には不可欠ではないか。それ以外に道はない。一面でいえば、この会の活動は、よびかけをとおして患者・国民の側の医療観を確認していく作業のようにも思える。
医療が個々人のいのちを対象にし、できれば健康でありたいという、だれもに共通する要求と結びついている以上、長い目でみれば共同が広がることはあっても、共同が狭まることは予想しなくてもよいだろう。

ただし、このようにも考える。
以上の現実の医療崩壊に直面して、医療を受ける側と提供する側が手をつなぐという欠かせない積極面も、それだけでは不十分だということである。それだけでは、積極面も生かせないのではないかという思いも率直にいってある。
あえて、運動という点で考えるならば、今日の医療崩壊をもたらした大元の要因、つまり医療費抑制策を見直していく、見直しを要求していく方向との結合が図られる必要があるということだ。そんな展望が必要ではないか。
要は、現実の対応をとるということと、要求する、「たたかって」いくという方向を一つのものとしてとらえておかねばならないということだ。

*1:当該医療機関のホームページをみると、この会の記事が目につく。http://www.kaibara-hp.jp/