政治は政治家だけで動きはしない− たとえば貧困問題


ある有名ブロガーの記事(参照)。久しぶりに読んでみた。こんな記事があった。

湯浅誠をいちおう評価する立場からなのだろうが、結論は既成左翼では派遣も貧困も解決できないということらしい。そもそもこの人の概念規定そのものが、ブログ左翼というほとんど意味不明の言葉をもてあますのだから、あやしいものだ。つまり、私にはほとんど左翼とは思えない連中にねらいを定めて所説を展開しているのだから。
したがって、この人物のいう既成左翼という概念もまた疑ってかからなければならない。これが、共産党を指すのか、それともそこに社民党を含めるのか、あるいはそれ以上の広がりをもつのか。疑念はこう拡散するばかりだ。共通の概念規定にたたない以上、議論は水掛け論になる。

しかし、その上で、彼のいう結論は正しいのか。
正しくない、と私は思う。
ブログを読むかぎり、彼はあちこちの集会には顔を出しているようだが、自身が、では派遣や貧困を解決するための実践に踏み出しているかといえば、少なくともそう受け取ることはできない。
私は、湯浅氏らの東京派遣村の経験が全国に広まっている事実を大いに評価する。たとえば生活保護受給という一点にかぎっても、東京での突破点が全国を励まし、現にいわゆる路上生活者の生活保護受給がすすみつつある。そもそも生活保護法には住居の有無にかかわらず受給の対象から除外してはならないということが今日、あえて今日というが、再確認されたことが重要だ。つまり、これまで生活保護法の規定にもかかわらず、住居のないことを理由に、最初で最後のセーフティネットたる生活保護の受給要件を満たないと却下されつづけてきたのだから。

このように、昨年末の東京派遣村の経験がまさに全国に普及され、全国的に経験の共有化が図られつつある現状にてらせば、一つひとつの国民側の取り組みが政治を動かしつつあるという結論を導きだしても少しも不思議ではない。
私たちはここで、政治の舞台で、たとえば国会でどれほど多くの議席を占めようと、何ら政治を動かす、つまり日本社会の抱える問題を少しでも解決するための方向に光明を示しえない一方の現実があるのかとはかかわりなしに、国会の外で政治を現実に動かしていることを直視しなければならないのだろう。

彼の下した結論は、だから、こうした実践とは無関係の立場からのものであって、空虚なものにすぎない。好事家の域を出てはいないというわけだ。別のことばでいえば、かさ騒ぎにすぎない。規制左翼うんぬんという所説は、そもそも現実から乖離しているといってもよいと私は思う。

冒頭に戻る。彼の眼中にある左翼というのを考えるのだが、どうも左翼とは自公以外は含めるらしい。さすがに国民新、日本新は入れていないようだが。とどのつまり、そんなところだ。そんな視野だから、彼の把握といってもこの程度というものだ。

1か月前から民主党西松事件と小沢辞任の政局となり、政策論議選挙対策は蒸発したようになり、方向性と存在感を政治の世界で失ってしまう。小沢一郎の威光は衰え、小沢一郎を支えることで保持していた左派の党内権力バランスも微妙になり、特に菅直人自身の指導的地位も危うくなった。おそらく党内は、もはや派遣法改正どころではないのだ。ポスト小沢に生き残れるかどうか、菅直人と左派が引き続き勢力を維持できるかどうか、剣が峰の状況になっているのである。

その影響で、派遣法改正の民主党案が出ないのであり、様子見の状態になり、先送りの気配が漂っているのである。民主党の派遣法改正案は小沢政局の帰趨何如にかかっている。

西松建設問題が浮上しようとしまいと、民主党が派遣や貧困問題をどれほど扱えてきたのか。とりあえずメディアがいっせいにこの事件を報道しはじめた時期の前後を具におってもらえれば分かることだ。民主党に、派遣や貧困を扱える、そもそものベースがないのだ。

彼はそれだけでなく、つぎの所説でも迷走している。

正月の派遣村運動の後、民主党の労働法制の政策方針を左に舵を切って、製造業派遣禁止を含む抜本改正に転換したのは、小沢一郎の差配によるものだった。衆知のとおり、菅直人小沢一郎の命を受けて福島瑞穂と手を繋いで抜本改正に動き始めた途端、自動車労連や電機労連をバックにした直嶋政行を始めとする党内右派が猛反発の声を上げ、朝日新聞紙上で抜本改正野党案を骨抜きにし棚上げにする策動が展開される。

そうではなく、民主党には、自民党同様に、企業への強い規制、あるいは世間でいわれる企業の社会的責任を公にすることができないことにこそ本質がある。表面上の政党の動きを見極めることにこのブログ子も、私には躊躇しているようにみえる。

一面で、彼は民主党への過大に評価しているということになろう。
小沢の一挙手一投足は、国民の反応がある意味で決定的な意味をもつことを承知することからくる、過剰な反応を意味している。だから一昨年の参院選で、生活重視などというスローガンを強調させたわけだ。それが、いかに本来の彼の政治信条とかけ離れていようといまいと。

政治はたしかに国会の政治家の手に委ねられているように思える。しかし、時々の局面で、力を持たないはずの有権者国民が一歩でも、二歩でも、私たちが暮らす毎日にほとんどみえないようなところで、少しずつ有権者国民自身が国会を、政治を動かしていることに注目したい。

それは、この有名ブロガーが「問題は政治によってでしか解決できないという認識」とはおそらく対極に位置するだろう。
政治によってでしか解決できないというのが正しいとすれば、その前提に国民にコミットメントを置かなければならない。私は、政治家の、あるいは国会の力を少しも軽視はしないが、また、弱小で、圧倒的な国民の力もまた、軽視はしないのだ。
政治は政治家だけで動きはしない。