人工衛星ヒステリー


たとえば今日のテレビ欄では、ワイドショーにかんする限り、ほとんどが北朝鮮ミサイル発射で埋め尽くされています。メディアがこのように同じ問題を強調することはあってもよいのでしょうが、同じような切り取り方をするところに、この国の特徴の一つがあるのでしょう。
これらの報道のヒステリー状態の要因には、政府の対応がおおもとにあって、それに北朝鮮がまた反応するという具合に、エスカレートしている状況がある。例をあげると、読売はわざわざ以下のとおり取り上げています。

「迎撃なら日本の重要対象攻撃」北朝鮮の総参謀部が警告

こうした日朝の対応の応酬はこれまでも繰り返されてきましたし、今回の北朝鮮の通告に端を発する問題もこの域を一歩も出ていません。
日本政府に外交というものがあるのか、疑念を抱くことしきりです。外交といえば、どんな問題でも米国の顔色をうかがい、同調することをまるで意味しているかのようです。
たとえばこのように。

安保理 日米が新決議で調整

これはNHKのものですが、伝えられる対応の良し悪しを別にして、日本が米国をこそパートナーとしていることが端的に分かる記事でしょう。日米が合意したとされる決議1718号は、しかし、朝鮮半島の非核化達成と北東アジアの平和と安定の維持のために、(関係国は)「外交努力を強化し、緊張を悪化させるおそれのあるいかなる行動も差し控える」ことが核心といえるのではないか。この決議にてらすならば、日本のMD配備はすでに決議に抵触するといえるものではないでしょうか。

外交といえば日米の関係を第一に考え、その関係からすべてを判断するかのように対応する日本の姿勢を外交の不在といって過言ではありません。日本にとって、外交とは、米国との協調を意味するということでしょうか。

北朝鮮の過去の無法は国際的な共通の認識でしょう。そして、北朝鮮が何よりも恐れていることは、同国の国際的な孤立でしょう。事態をさらに緊張の方向に導き、複雑にする軍事的対応は、外交とは無縁といわざるをえません。
すでに日朝間には外交の歴史的到達があるではありませんか。
そう日朝平壌宣言(2002年9月)です。
そこに立ち戻ることが、日本政府には求められます。

加藤周一はかつて、プラハの春の際、その結末が加藤の期待を無残にも裏切ったことにふれて、「圧倒的で無力な戦車と無力で圧倒的な言葉」と記しました(参照)。
その視点によれば、外交の要諦は、圧倒的で無力な軍事対応ではなく、無力で圧倒的な対話にあると考えるのですが。