土下座知事と盲従


小沢氏の一件がとたんに報道されて、氏と民主党の対応に否定的な意見が多かったように思うのですが、そうではない意見もあるようです。政権交代をさけぶばかりで(何をどうかえるのか)中身は一切語らない同党よろしく、ブログの世界でただただ交代を、交代をと繰り返す連中と、そして小沢氏の息のかかった政治家たちでしょうか。別のことばでいえば、小沢盲従とでもいえるような追随ぶりを、彼らにみてとることができるでしょう。
その一人が達増拓也。れっきとした岩手県知事です。
彼は、西松建設の違法献金疑惑が伝えられ、小沢氏の名前があがると、いち早く小沢弁護に乗り出したのです。

その彼が土下座した。土下座するというのは、一般にありうることでしょうが、しかし、彼の場合、土下座という行為が県議会という議場でおこなわれた。しかも、提案した条例を通したいという一心で。

岩手県知事が議場で土下座 「身も心も投げ出し」お願い

県立医療施設での入院ベッド休止を巡り与野党が対立している岩手県議会で6日、達増(たっそ)拓也知事(44)が補正予算案の再議を求めて議場で土下座する事態が起きた。

 岩手県は昨年11月、医師不足などを理由に医療施設6カ所の入院ベッドの休止を発表。これに地元住民や野党議員が反発する状況が続いている。県側は08年度補正予算案に転院を余儀なくされる患者送迎用バスの購入費を盛り込んだが、5日の常任委員会で野党系議員らがこの部分を削除する修正案を提出した。

 小沢一郎民主党代表の側近で衆院議員から転身した達増知事を支える民主系会派は第1党だが、過半数には届かない。6日の本会議では、バス購入費が削除された予算案が賛成多数で可決された。

自ら提案した法案、条例案を通したいとは提案者ならば誰でももつ思いなのでしょうが、では議会は何のためにあるのか、それが問われる知事の行為でもあります。ほとんど場違いな、理解できない行為ですが、実は、結果的に議会というものの役割を無視する行為ともいえます。県議会議員は県民から選ばれた代表であって、案件を彼らの主義主張によって議論し、最終的には多数決でその採否が決められるものでしょう。こうした手続きをないがしろにし、提案者・知事と議員とを、いいかえると提案者と審議する者を、懇願する、される関係に置き換え、採決による決定を自らの思いどおりに運ぼうとする意図をふくんでいます。十分に審議を尽くし、決定するということにてらせば、知事の滑稽な行為は非難されてしかるべきです。


それだけでなく、私には、達増知事は、議会の役割も理解されていないか、あるいは無視しているか、そのどちからであるとも思えます。仮に、県民の意思が法案の示す方向と逆であったとしても、岩手県議会が民主党過半数を大きく超える圧倒的な多数を占めていたなら、こんな事態はおこらない。むしろ、知事はここでも議会の議論には関係なく多数の力を借りて押し通したでしょう。
その場合の多数で押し通すという知事の心性と土下座をして通そうとするそれは密接不可分のものではないでしょうか。
つまり、知事は、議会という民主主義が保障されるべき場とはとらえず、関係を、提案者と審議者の個別の関係としてとらえる思考がみについているようです。

だからこそ、小沢氏とその薫陶をうけた自身という、いわば主従の関係が貫徹される。今回の西松違法献金問題が公に再び明らかにされ、事態が捜査、逮捕という重大な局面に至ったとき、その関係が著しく強調されたということでしょう。

達増氏はこうのべています。

達増拓也知事はこの日、議会や記者団に対し、「『やましいことはない』という代表の言葉通りだ」などと繰り返した。さらに、総選挙が近い時期に捜査が入ったことについて、「釈然としない。(選挙への影響を)意図していたなら、とんでもないことだ」と語った。
小沢氏秘書逮捕 民主県連など捜索

ふりかえれば、政党助成金が法制化されるとき、企業献金廃止を助成金導入の理由にあげ積極的だったのが小沢一郎でした。そして、小沢は今、企業献金にたいしてきわめて寛容であって、それを容認する姿勢をあらためて会見でのべています。
カネと政治にからんで、この種の事件がくりかえされるのは、企業献金という存在があるからにほかなりません。献金という行為に内包されているのは、贈る側と贈られる側の関係で、しかも贈る側は反対贈与をあらかじめ期待しているものです。このことは、たとえば今回の事件の舞台が公共事業であることからも明らかなように、国民の、あるいは県民の税金のつかいみちをゆがめることで、自らの利益を得ようとする意図と、それを支援しようとする意図がそこにあるということです。

たっそ知事、達増知事の土下座という行為は、政治の場に非対称の関係を持ち込もうとする意図の一種の表現であるとみておく必要があるように思えます。
ただ、馬鹿馬鹿しい、理解できないということだけでなく。
その意味で、彼の語った「身も心も投げ出す」という言葉は、それを象徴する以外の何ものでもありません。