加藤周一を樋口陽一が語る。


朝日新聞が「追想 加藤周一」という企画を組んでいる。

同紙によれば、戦後日本を代表する知識人、「加藤周一の残した膨大な仕事の意味や、その人柄を、ゆかりが深かったり、その作品に影響を受け」た5人がそれぞれ追想するという魂胆らしい。
すでに3人の文章が掲載されていてそれを読んでみて、紙背から感じることができるのは、いずれもが加藤との距離感を強く意識しているということだ。樋口陽一も、池沢夏樹、福岡伸一も同じように加藤を相対化し、汲み尽くしえない加藤の知を語っている。
初回は樋口陽一

あるときは小気味よく(「(粋とは)規範に媒介された感情」)、あるときはさりげなく重く(「過去が歴史なのではなく、現在を決定する過去が歴史なのである」)定義づける仕方。そういうすべてが、圧倒的な個性的「知」の体系に組み込まれ、その量と質をさらに大きくしてゆく、その反復。これが「加藤周一」なのだ。

こう樋口は加藤を表現する。加藤を読んだ人は誰もが実感する加藤の文体をよくいい表している。その上で、私には、この樋口の言い回しが、すでに加藤の相似形だということである。加藤を語るものがいつのまにか加藤になりきる。文体の上で。それだけ、表現がすなわち普遍性をもっているということなのだろう。硬質で簡潔、曖昧さを寸分も孕まない、研ぎ澄まされた明晰さ。余分なものを一切排除したところに加藤の特長の一つがあると私は思う。加藤の文体は、だから余剰という「加藤らしさ」を見事にそぎ落としている点で、普遍性をもつ。これはまさに加藤のものである。
加藤に接し、近づこうと思おうと思うまいと、いつのまにかこうして加藤になりきろうとするゆえんではないだろうか。

樋口がたとえばこういうとき、すでに帰らぬ加藤ではない、もう一人の加藤がそこに存在するようにさえ私には思える。

広げられた「文学」の概念は、社会・経済・政治にかかわる人間の思考にまで射程が及ぶだろう。それは戦後解放に専念した若き加藤周一が「政治的ラディカリズムと文学の古典的概念」の「共存」を掲げたことの、結果だったのではない。そうではなくて、すでにその前提だったことを改めて方法的に明示したものだった、と私は思う。

こうして私たちは加藤周一に接近しようとするのだが、そこに加藤はおらず、すでに先を歩んでいる。これが、3人が語る加藤との距離感なのだろう。