赤木智弘氏の着眼のおかしさ


古井戸さんからのTBで知った(参照)。
帰宅途中、赤木氏の記事をこの目でたしかめようと毎日新聞の紙面を探してみたが、みつけることがかなわなかった。だから、古井戸さんの引用によるしかないことを最初に断っておく。
赤木氏の見解に疑問を私は率直にもつ。

引用によるかぎり、赤木氏は、連合のベア要求をやり玉にあげている。この、いわば非常時に何事かという意見は案外、支持を得るかもしれない。その上、このように赤木氏が連合にむかって、明確に批判するのだから。
しかし、この赤木氏の連合にたいする批判自体、裏返しにすると、連合がベア要求したことと同じ意味をもっている。ようは、今の局面でどこに手をつけるのか、という点で氏は異議申し立てをしているわけだ。
たとえば、このように。


現状でまっ先に課題とすべきは、ベアなどではなく、まず非正規の処遇

氏はこう主張する前提をなるほど置いているのだが、それはほとんど意味をなさない。氏によれば、その前提とは「自分たちが非正規問題の『従犯』だと認めるのならば」ということだ。だが、非正規労働問題にあたって「従犯は労働組合」だと連合・高木氏が仮にのべようとのべまいと、今現在の局面で第一義的課題は何かという問題はそれとは別に存在する。
私の考えでは、それは、氏がいうような「ベアなどではなく、まず非正規の処遇」でも、連合が主張するというベア(ただし、真っ先にベアだという表現を聞いたことはない)でもない、大企業に内部留保の一部を吐き出せ、それで雇用を守れということである。

氏の認識が引用のとおりだとすると、赤木氏は認識そのものを問われかねない。まるでイロハを理解していないかのようだ。

「私はまったく悲観していない。それどころか、不況になってくれてよかったと思っている。それにより社会の大勢には、弱者に対する同情心などなかったということが、ハッキリ示されたのではないか」というのはまだかわいいかぎりだが、しかし、これはどうか。


今回の連合によるベア要求は、格差問題がけっして「労働者vs経営者」という二元論に納まる問題ではないということを明らかにした。今後、現状の立ち位置をうやむやにしたまま「正規も非正規も関係なく、一緒に闘うべきだ」と共闘を訴えるだけの言論は説得力を失うだろう。

仮にも連合がいかなる立場の労働組合だったのか、氏が知らないはずはないだろう。かつても、おそらく今も昔流の言葉を使えば、連合が労使協調派という区分に該当することをだれも否定しないのだから。それとも、赤城智弘氏はこの事実をあえて隠しているのか。(こんな連合を)いわゆる労働組合一般に置き換えるという詐術をとっているといわれても仕方ないだろう。

このように、正規労働者が非正規労働者を差別するという彼特有の構図からいまだに脱しきれない赤木氏が、(非正規労働者を救うために)いったいこの局面打開のために、どんな影響力を発揮したのだろうか。

端緒ではあっても、湯浅氏や一部の労働組合の貧困に反対するという一連のキャンペーンは確実に世論を動かしつつあるという確信を私はもつ。そして、そうしたキャンペーンと同時に、具体的に雇用問題を解決しようとする実践、たとえば相談活動や年末からの「年越し福祉村」の取り組みが、連帯の機運をいかに広げているか、考えるべきだろう。
だからこそ、それを快く思わない勢力は、あらためてアンチ・キャンペーンの反攻に出ているわけだ。
昔の人はよくいったもので、運動が強まれば、そのことが反勢力の運動を招来する、つまり弁証法的にものごとは動くのだ。しかし、その展開にこそ発展の契機が見出しうるというわけだ。

湯浅氏らの実践はその意味で将来への萌芽を大いにふくむだろう。一方で、赤木氏の言説は、氏の本意がどこにあるのか知らないが、こうした階級間の対立を、傍観者的にながめつつ、実は、対抗する勢力、対抗しようとして連帯しうる勢力の間に、世間の晴れて「公認」となった言説でもって楔を打ち込むようなものだと表現しうるだろう。

赤木智弘氏の言説で労働者が励まされるようなことは一切ない。そうではなく、お互いの反目の契機があるのだとすれば、そこにあえて亀裂を拡大するように作用するだけのものだ。
氏は、これまでの言説の着眼から一歩も抜け出ていない。新自由主義は、国民の多くに、富と貧困という二極分化を鮮やかに示し、その一極に富を集中している大企業・財界があることを照らし出した。
だからこそ、今、われわれ眼は、大企業・財界に向けられないといけないだろう。
氏の限界は、これをまったく欠落させている点にこそある。