税金のつかいみちに着目するということ。


首をかしげたくなるのは、いまだに「大きな政府」とか「小さな政府」を無前提に、しかもその是非を語ろうとする風潮がある点。「大きな政府」か「小さな政府」かという議論は、それほど有益なものではない。ちょうど小さなものをさらに小さくするのが構造改革と定義づけるのが正確でないのと同じように。それより、これまでをふりかえって、たとえば開発主義から新自由主義改革へという流れを確認することの方がよほど重要だろう。もっとも、そう認識しなくてはならないのは、とっくの昔だったのだが。

いま、こんな議論がでてくるのは、麻生政権の後継をめぐって、自民党内で、そして民主党も巻き込んで、動きが表面化したこととむろん無縁ではない。
麻生に圧力をかけつづけている人物の一人が中川秀直で、彼はいわゆる「上げ潮派」として把握されている。ようは、別の言葉でいえば、構造改革路線継承か否か、が後継争いの論点の一つとしてとらえられているからだ。つまり、彼は、小泉改革路線の継承をもっとも強調する一人だからである。
マスメディアがあおるのも、そんな各派の勝ち負けであって、結局、世論のなかにノイズを持ち込んでいるに等しい。

当ブログは、総選挙の結果によって、政治のありようがどうなるのか、いくつかの可能性を示した。
それにそえば、自民が過半数を占めた場合も、民主が過半数を占めた場合も、多かれ少なかれ構造改革路線が踏襲されるだろうということである(参照)。
逆に、構造改革路線を阻止できる可能性があるとすれば、民主党単独では過半数を満たさず、構造改革に反対する共産党などの発言力が保持された場合に限られてくる。

構造改革路線であろうと、あるいはいわゆる財政再建派であろうと、税金のつかいみちでいえば、大企業優遇、米国優先の姿勢では共通している。この点の議論こそ重要ではないか。
かつて開発主義は、ムダ(な開発)がその内実であった。その際、大企業、ゼネコン奉仕は極まったのだ。開発主義はいくらか「修正」されたのだが、税金のつかみちはどうだろう。あるいは逆からみて、税金のとり方はどうだろう。むしろ大企業優先のありようは深化したのではないか。
こんにち富と貧困が広がったのは、その結果である。所得再分配社会保障切り捨ての構造改革路線とも結びついて極端に機能していないのだ。

だから、あえてくりかえせば、税金のつかいみちを根本から問うことだ。
大企業優遇とは何か、実態はどうかをしっかりつかむことだろう。また、米国政府への追従ぶりがいかなるものか、米国のいいなりになって日本はどこに、どれだけの税金をつぎ込んでいるのか、それを知ることである。
そうすれば、大企業優遇のこれは減らせ、米国いいなりのこれはへらしても差し支えない、などの具体的な議論に発展するだろう。

当ブログが、期間工・派遣切りが横行するなかで、大企業の内部留保の一部をはきだせというのも、これと深くかかわっている。彼ら大企業は、税制面で優遇され、多額のため込みが可能な状況にあるのだ。その一部をはき出したところで、体力が弱まることはない。それで、どれだけの労働者を救えるだろうか。大企業は、非正規労働者を利用して利潤をあげ、税制でのバックアップをうけ、今日の内部留保を築いてきたのだから。今こそ、その「還元」をすべきときだ。
折角、議論するのなら、本質に迫り、語らないといけないだろう。
(「世相を拾う」08259)

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