橋下氏の非寛容− ケータイはダメだ。。

橋下知事「学校にケータイ必要ない」、府立高で使用禁止に

過去のエントリーでこう書いたことがあります。
橋下氏の今回の判断で思うのは、このことでした。


70年代のアメリカで「学級崩壊」をはじめ諸問題に対処するためにとられたゼロ・トレランス。日本でも、いくつかの学校でこの方式を導入したことが報じられてきました。今日でも、岡山学芸館高校ではこれをとりいれているといわれています。
このゼロ・トレランスと同じものだと断定することには異論もあるでしょうが、日本政府のとる施策、提出する法案に相通じる思想性をしばしば感じないわけでもありません。

ゼロ・トレランス(zero tolerance)とは、微に入り細に入り規則を決め、それに反する場合は罰則をもうけ取りしまる教育方針だといってよいでしょう。不寛容主義ともいわれており、その対極には放任主義があるのでしょう。 (参照

つまり、問いたいのは、ケータイの持ち込み是非そのものではなく、府知事が持ち込み禁止を決定してしまおうとする思想です。そこに、あとでのべる、ヤングの主張を重ね合わせると、彼の思想には根底に排除というものが存在するのではないかと思うのです。

ですから、現実には、新自由主義的風潮と共鳴しあう。そして政治的には、財界・大企業の意向をもっともよく反映した手法をとるのではないかと。別の言葉でいえば、彼は、たとえば教育関係者、あるいは生徒、あるいは障害者や高齢者などいわゆる社会的な弱者をも容赦なく切り捨てる。排除する。
それだけではなく、この排除型手法が常に、一方での寛容をともなっていることに着目しないわけにはいきません。ようは、非寛容の一方で、それとはちがったところで寛容という態度をとるのです。たとえば、それは彼の大企業への態度にも端的に表われているでしょう。

あえて過去記事から再掲すると、ヤングはこのように整理しています。

  • 犯罪や逸脱にたいする寛容度の低下
  • 目的達成のために懲罰を利用し、過激な手段を用いることも辞さない
  • 礼儀や秩序、市民道徳の水準を、知られうるかぎりの過去まで戻す
  • 市民道徳に反する行為と犯罪が連続したものとみなされ、「生活の質」を維持するための規則を破ることは、重大な犯罪とつながっているとみなされる
  • 市民道徳に反する行為と犯罪は関係があり、市民道徳に反する行為を監視しておかなければ、さまざまな形で犯罪が増加すると信じられている
  • そうした考えを広げるために、同じテキストが何度も繰り返し言及される。それは、1982年の『アトランティック・マンスリー』誌に掲載され、もはや古典として知られるようになった、ウィルソンとケリングによる「割れ窓(Broken Window)」という論文である

犯罪学者であるヤングのこの分析には、犯罪学という立場からの強調があるのは事実でしょうが、しかし、この整理は今回の橋下氏の立場、心性を的確に表現しているように私には思えます。
社会的な規範というものから、あるいは多数を占めるだろうというものから、外れているもの、逸脱したものにたいしては厳しい、非寛容の態度をとる。今でも日本社会には和という概念が殊の外、尊重されると思うのですが、今以上にかつてそれは強調されてきました。和を乱す、と。ひとたび和を乱したものは、その人の思いがどんなものであろうと関係なく、白眼視されることがしばしばではなかったでしょうか。
同時に、少数派として(一部を)排除しようとする心は、どうも、支配者だけというものでもなく、政治的立場が仮に急進的右翼であろうと、なかろうと、そして平和や護憲を日頃は主張している者であって、少数者にたいしては、くりかえし排除しようとする動きがくりかえされているのが、我われの周りの光景ではないか。
その意味で、この状況を察知し敏感に反応しつづける橋下氏はクレバーなのかもしれません。

府知事が決めるのではなく、生徒に大いに議論してもらえばよい。あるいは、そこに教師も加えてよいでしょう。父母も語り議論し尽くして、はじめて解決の方向を見いだす可能性が存在するのです。
徹底した非寛容の姿勢は、一方で過剰な寛容の姿勢を含意している。私はこう考えるのです。
(「世相を拾う」08253)


同文を、「花・髪切と思考の浮游空間」に公開しています。



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