「秋葉原事件と時代の感性」(毎日)


備忘録。


秋葉原事件と時代の感性・上*1

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080820dde018040052000c.html


 秋葉原の17人殺傷事件からはや2カ月。事件で見えた時代の性格、世代の感性、格差などはまだまだ論じ尽くされていない。90年代から大事件について発言してきた大澤真幸・京大教授、オタク文化やネット社会に詳しい批評家の東浩紀さん、若年層の労働問題を論じる批評家の大澤信亮さん。識者3人の議論を上下2回で掲載する。【構成・鈴木英生、写真・川田雅浩】

 ◇メディア上の議論少ない−−大澤真幸さん
 ◇「誰でもいい」が共感呼ぶ−−東浩紀さん
 ◇労働運動の言葉届くか−−大澤信亮さん


 大澤真幸さん(以下、真幸) 今回の秋葉原事件は、マスメディア上での議論が比較的少なかったですね。90年代のオウム事件酒鬼薔薇(さかきばら)事件では、事件の不可解さから、メディアがなぜ事件が起きたのか一生懸命に考えた。ところが、2000年前後から、犯罪者への関心が急速に下がって、おおむね「変な人はいるものだ。それよりセキュリティーだ」となってきました。一方ネットなどには、ものすごい量の議論があり、事件への少なからぬ共感があります。

 東浩紀さん(以下、東) マスコミの言論が社会的包摂の機能を失っているのでは。事件の意味を見いだし、それに社会全体が共感して「異常者」を包摂する構図が、信頼されなくなってきた。

 他方で今回、ネットでは加害者への幅広い不定形の共感がみられました。でも、共感した若者が全員、派遣労働者非モテ(異性にもてない)ではない。もう少し緩やかな共感があります。最近、通り魔事件のキーワードは「誰でもよかった」ですが、精神科医斎藤環氏が言うように、被害者だけでなく加害者すら誰でもよかったのではないか。

 「敵は貧困を生み出した経団連なりであるはずが、間違えて秋葉原に行った」という話ではない。むしろ匿名の誰でもいい加害者が匿名の誰でもいい被害者を殺すことでしか、今の怒りは表現できない。その匿名性、あるいは無名性が共感された。アキバもネットで一番目立つ場所だから選んだに過ぎない。加藤智大容疑者のネットの書き込みは、派遣問題や非モテ問題すら演出していたふしがある。彼自身は女性の友人もいたらしいし、極端に搾取されていたわけでもない、とも聞きます。

 大澤信亮さん(以下、信亮) 評論家の解釈が社会的な意味を持たない、という話はよくわかります。ただ、わかりやすい原因探しはもちろん、「原因を貧困に求めるな」とか「彼はオタクではなかった」という一見「冷静」な判断も一種の思考停止に見えてしまいます。必要なのは語る側の内省ではないか。

 たとえば、僕はフリーター運動のあり方について考えさせられました。彼は「内なる自己責任」を背負わされていた。『反貧困』の湯浅誠さんが言う、五重の排除があった。教育、企業、家族、公的福祉から排除され、最終的に自分自身からも排除されて、自己責任論にとらわれてしまう。そのがんじがらめの解除を目指してきたのが、プレカリアート運動(フリーターや派遣など若年層の労働運動)でしょう。責任は自分ではなく社会にある、と。

 ところが、彼のネットでの書き込みは、自分の状況を社会問題としてとらえる回路がまったくない。モテないとか、電車で人が横に座ってくれなかったというレベルの話ばかり。これはどういうことか。単純に量的な問題で、運動がもっと拡大すれば彼にも届いたのか。違うと思う。いくら「あなたのせいじゃない」と主張しても届かない人がいる。彼は今のフリーター運動にとって「他者」だったと思うんです。しかも彼は不安定就労の典型的な当事者でした。つまりもっとも届けるべき人に届かなかった。これは深刻です。

 僕がかかわっている『フリーターズフリー』という雑誌は、「当事者の声」を届けるために創刊しました。でも、僕が感じている当事者性とは、そもそも「自分は被害者だ」「誰かのせいにしたい」ではない。一方で被害者であり、同時に、他方で加害者でもある、という二重性こそが当事者性だと思うんですね。

 現在のフリーター運動は一般に、自分たちは被害者だとアピールし、敵を外に見いだすことで共感を求める運動だと考えられています。この現状を内と外の両方から変える必要を感じます。

 真幸 一般には、共感する人が少ないなら、社会がそれを包摂する必要性も小さくなります。しかし、今回の事件では、意味的には包摂されなくとも感覚的に幅広い共鳴がある。

 ちょうど40年前の永山則夫事件と、今回の事件と比較してみるとよい。永山も加藤容疑者と同じく、青森から東京に出てきた。永山は4人を連続で射殺した。彼はまともに教育を受けられない状態で育って事件を起こし、獄中で勉強した。そして、貧困による無知が自分の事件を生んだとの結論に達した。

 加藤容疑者は永山ほど単純に無知だったとは言えない。永山が見当外れな人を殺したのは、まさに無知による。加藤容疑者も「本当の敵を間違えた」のでしょうか。

 僕の恩師である見田(みた)宗介さんが、かつて展開した「疎外」についての議論を援用します。疎外の概念は、普通、労働疎外みたいに「〜から疎外されている」と使う。しかし、見田さんは「〜からの疎外」の前提に「〜への疎外」を置いた。貧困は富から疎外された状態だけど、「富からの疎外」の前提には「富への疎外」がある。つまり、富があるのは幸せの証しとされていて、みんながそれを欲望している。これが「富への疎外」です。で、得られないのが、「富から疎外」された貧困だと。

 結論を言えば、永山には「〜への疎外」があったが、加藤容疑者はそれからも疎外されていたのでしょう。「〜への疎外」があれば、まだマシ。

 たとえば、甲子園で優勝を目指す野球部は、見田風に言えば「優勝の喜びへと疎外」されている。そのチームでは、ずっと球拾いの人も、自分は甲子園優勝という崇高な目標を持つ部の球拾いだと思えば、少しは救われる。

 「〜への疎外」の中にいれば、資本家を狙ってテロをする構図にもなるが、加藤容疑者にはそれすら成り立たない。つまり彼の事件は、テロとして失敗しているという意味でテロになっているんです。

  自分が誰であってもいいからこそ、誰でもいい人物と共感する。今の若者は、地縁も血縁も意識せず、「自分が選べないもの」をあきらめて受容するという経験が少ない。今は、「おれは誰でもいいんだ感」や「おれは何にでもなれるんだぞ感」が広く醸成されている。だから、その人たちの共感は、たとえばペンキ屋さんの息子がペンキ屋を継ぐしかなかったから、似た境遇の家具屋さんの息子に共感するという感情とは違う。

 これは、ネオリベラリズムによって社会の流動性が高まった結果です。今の競争社会は、いわばギャンブル社会。スタートは同じだけど、後は「がらがらがっしゃーん」で何人か抜けて、残りが負け組になる。こういう社会では、無名性、匿名性の感覚が強くなるから、今回のような事件が共感される。この状態は変える必要がある。でも、これはかなり抽象的な視点でようやく指摘できる話。今回の事件を、単純に労働問題とは結びつけにくい。

 あと、マスメディアの若者像は、90年代半ば、援交少女の時代から凍結されている気がします。テレビで若者の街として映るのは今も渋谷です。週刊誌で仕事をすると「中高年の読者に分かる書き方で」と言われますが、僕はもう37歳です。でも、いまだに若者扱いです。

 社会的に事件を包摂できない背景には、そういうマスコミの事情もあると思います。就職氷河期などで世代交代が進まなかった時期にネットが普及したから、ネットと従来のメディアとの関係が、世代間格差に重ね合わされている。


大澤真幸が、見田宗介を引用しながら、指摘している次の点が興味をひく。

貧困は富から疎外された状態だけど、「富からの疎外」の前提には「富への疎外」がある。つまり、富があるのは幸せの証しとされていて、みんながそれを欲望している。これが「富への疎外」です。で、得られないのが、「富から疎外」された貧困だと。
結論を言えば、永山には「〜への疎外」があったが、加藤容疑者はそれからも疎外されていた

秋葉原事件と時代の感性:識者座談会/下*2

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080821dde018040068000c.html


 秋葉原17人殺傷事件で見えた問題を改めて振り返る座談会。前回は大澤真幸・京大教授が、40年前の永山則夫事件と対比し、批評家の東浩紀さんは、事件が広く共感を呼んだ構造を指摘。批評家の大澤信亮さんは若年層の労働問題を説く言葉の欠陥を突いた。今回は、問題を根本から解決する糸口を巡って、激しい議論が交わされた。【構成・鈴木英生、写真・川田雅浩】

 ◇「無名性」こそが苦しみ−−大澤真幸さん
 ◇自己啓発で解決しない−−大澤信亮さん
 ◇あきらめて主体は安定−−東浩紀さん


 大澤信亮さん(以下、信亮) 加藤智大容疑者のネットへの書き込みの大半は自分についての言及ですよね。それを秒単位で何回も反復していた。でも、そこに無名性の問題を見るだけでは、「ではどうする」という問いが出てこない気がします。

 東浩紀さん(以下、東) 僕は肯定しないけど、無意識のうちに「対策」は生まれている。たとえば自分探しや自己啓発セミナーは、「無名のあなた」に「本当の自分」を発見させる技術だと言える。

 大澤真幸さん(以下、真幸) 自己啓発セミナーって、いわば「病気が治らなくとも、それに耐えられる体力をつくる」ような対症療法ですよね。個人がそれで解決しても、社会的には病気のまま人が生きているのはどうなんでしょう。

 おそらく、容疑者の苦しみは、「無名であること」自体です。加藤容疑者と酒鬼薔薇(さかきばら)事件の酒鬼薔薇聖人は同い年ですが、酒鬼薔薇は「透明な存在である僕」という表現を使った。透明とは無名、つまり世界から見られていないということ。実際は戸籍名があるのに、「自分には名前がない」と思っている。「本当の名前」で呼びかけられたいわけです。今回の容疑者は、ネットで応答をもらい、透明な存在である自分を克服したかったんじゃないか。

 信亮 彼には、最終的なよりどころとしての「自分」は絶対に明け渡さないような、自己に閉じこもる感じがあった気がするんです。自己啓発的な呼びかけで「〜への疎外」の世界に入れる人もいるでしょうが、彼にはその種の呼びかけは通用しなかったのではないか。

 真幸 最近は自己啓発セミナーもはやらないのでは?

  自分探しは続いているし、NPOや社会運動のブームも近い感性に支えられている。

 真幸 以前は、自己啓発的なものが加藤容疑者のような人を社会の周辺部分に包摂できましたが、その戦略が効かなくなっているのでは? 普通に働く若者みんながそうなったときに、全員を周辺化はできない。

  別の言い方をすれば、結局、彼に代表される人たちに欠けているのは、自分の人生を自分で引き受けることだと思います。

 自分が選択できないものを選択して、人間は主体を構成する。選択できないものとは、普通は地縁や血縁ですね。本当は、この場所でこの時代にこの親の子に生まれたくなかった。でもそれを仕方がないと、いわばあきらめて主体は安定する。あきらめずには大人になれないのに、現代社会ではそのあきらめの回路がうまく働いていない。

 今回の事件だけでなく、昨年話題になった赤木智弘さんの論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい」も同じ。あれは「自分が正社員になれなかったのが耐えられないから世界をリセットしたい」という話です。確かに、正社員になれなかったのは、運が悪かっただけかもしれない。不条理は修正する必要があるけど、他方で絶対にある程度の不条理が残るのも確か。その部分は世界の決定事項として引き受けるしかない。そもそも戦争で現実がリセットできたとしても、人生はリセットできない。今、戦争が起きても、赤木さんは既に30代半ば近い。それはもう変えられない。

 真幸 呼びかけという言葉にこだわりますが、正社員化も「社会の中であなたは必要だ」という呼びかけの一つです。正当な報酬や休みがあって簡単に解雇されない状態は、呼びかけのベースになる。

 ただし、正社員化だけで問題は解決されない。それを忘れると、「もっと恵まれない人がいるのに、その程度のことで文句を言うな」となってしまう。

  その点については、議論を逆転させるべきです。「そんなに貧しくないはずなのに、なぜこれだけうるさいのか」と考えなくてはいけない。精神論で「黙れ」と言っても、状況は変わりません。

 信亮 確かに今のフリーター運動は、自分たちが割に合わない世代だという共感で支えられている一面がある。でも、これだけでは世代を超える議論にならないし、理念としても弱い。

 たとえば、資本制経済の下では、いくら目の前の敵をたたいても不安定雇用は必然的に要求されます。さらに自分の権利を主張した結果がそのまま、他者の権利を収奪することがあり得る。だから、最終的に目指すべきは、違う原理の経済や組織ということになります。

 そこで『フリーターズフリー』は共同出資の事業組合という形式をとっています。雇う人間と働く人間の間に亀裂が入らないシステムを試している。とても小さな試みですが、それは単なる共感ではなく、理念と原則で支えられた活動です。

 ◇既存システム根本の問題−−信亮さん
 ◇共感だけで連帯できない−−真幸さん
 ◇愛の損失コストを下げよ−−東さん
 信亮 ここで見えてきた問題、生まれてくるアイデア、つながっていく関係は思いのほか多い。人には自己啓発的、NPO的に見えるかもしれないけれど、こうした取り組みに、既存のシステムを乗り越える芽があるんじゃないかと思っています。

 真幸 つまり、共感だけでは連帯が十分に広がらない。それと、資本主義を最後で最大のゲームとして受け入れてしまっては、究極的に問題は解決しない。たとえば、さっき言った正社員化も呼びかけの第一歩です。しかし、資本主義の原理が徹底されると、すぐ首を切らなかったり社会保障を充実させたりで呼びかけを偽装する企業は負ける。企業が残らなければ正社員で雇われても意味がないから、これでは根本を解決できない。

  資本主義の横に、愛やケアがあればいいのでは。

 信亮 資本制や民主制自体の中に、それらを乗り越える道を探すことはできませんか?

  それはどうでしょうか。資本制はイデオロギーではない。乗り越えというのは、よくわかりません。

 真幸 開き直ってますねー(笑い)。

  資本制とはおそらく、私有財産貨幣経済があれば自動的に、何度でも生まれるものです。だから、「資本制のせい」と言っても仕方がない。

 真幸 でも、メーンストリームが無理だから別で作るという戦略は、難しくなっているのでは?

  たとえばベーシック・インカム(注、*3)の考えにひかれます。基礎的な生存権が無条件に保障されれば、ケアや愛も実現しやすくなるはずです。今はNPO職員も給料がないと生きられない。ケアや愛を実行する際の損失コストが大きすぎる。そこが変われば状況は変わってくる。

 20世紀の後半、ハッカーたちは誰にも指示されずインターネットの世界を作り上げた。彼らはたまたま、あまり働かなくて良かった。そして暇だからやったことが、新しい産業や文化の核になった。同じようなことが、あり得るのではないかと思います。

 真幸 最後に、総括的に言うと、やはり一つの事件が事件以上のものになることがある、ということです。僕にとってはオウム事件がそういう意味をもったし、団塊なら連合赤軍。この事件は、確実にある人々にとって出来事以上の出来事になると思います。

  今回の事件は、タイミング的にも、フリーター問題やロスジェネ論壇の盛り上がりと一致していた。象徴的な事件になるよう、運命づけられていたと思います。

*1:毎日新聞 2008年8月20日 東京夕刊

*2:毎日新聞 2008年8月21日 東京夕刊

*3:基本所得制度。すべての個人に無条件で最低限の所得を保障する制度。受給条件やそのための調査が必要な生活保護と違い、一律に支払われる。人々が自らの意思で仕事を選択でき、雇用の場以外で自らの役割を見いだせるようになるなどとして、80年代以降、西欧を中心に導入を望む声が高まっている。