秋葉原事件についての大澤真幸メモ


秋葉原の事件が起きて、少なくない論者が事件の解釈を試みている。
この人ならば事件をどのように論じるのか、聞いてみたいと私が思っていた大澤真幸が「世界の中心で神を呼ぶ−秋葉原事件をめぐって」という論考を発表している*1。この論考から抜書きし、書き留めメモる。

論考はつぎの6つの部分からなっている。

    • CROSS+CHANNEL
    • 犯罪の形而上学的深み
    • 非典型労働者たち
    • 「への疎外」からの疎外
    • インターネットの闇に潜む神
    • 「誰もいない部屋に言ってみる」

論考の第一で大澤がのべるのは、この章の表題にある美少女ゲーム「CROSS+CHANNEL」を当事件が連想させることである。大澤は、ゲームの主人公・黒須太一につきまとう殺人衝動に、秋葉原事件のKを無差別殺人に導いた欲望と重ね合わせ対応させている。

ところで、大澤によれば、このゲームはこう記述される。

他の友人たちと別れることにこそ、ゲームの目的があるのだ。太一には、一種の超能力があり、人を、こちらの並行世界からあちらの現実世界へと送ることができる。太一は、何とか湧き起こる殺人衝動をコントロールし、友人を一人ずつ現実世界へと「送還」すればよいのだ。

それゆえ、他者への分裂した両義的な感覚が、主人公の態度を特徴づけていることになる。一方には、殺害を許さないほどの他者への極端な敵意がある。他方には、自己犠牲的な方法で他者を救済しようとする最高度の優しさがある。

ゲームが成功裡に終わった場合の帰結は、それゆえ明白である。主人公一人だけが、こちらの現実世界に取り残されることになる。最後に、放送部員でもある主人公は、もう一度、屋上にアンテナを建て、メッセージを送信する。

主人公がいるこの世界は、彼以外には誰もいない無人の空間である。メッセージは、あちらの世界、彼が帰還することができなかった現実世界に向けられているのだ。電波は、無限の距離を隔てているあちらの世界に届くだろうか。その絶望的な願いがかなえられていたかもしれない、ということが示唆されてゲームは終わる。

事件は、第一の章で引用された少女ゲームを連想させるばかりでなく、過去の酒鬼薔薇聖斗事件、宮崎勤事件との類似性を感じさせる。周知のように、大澤は、以上の2つの事件に加え、40年前のNの殺人事件にもこれまでたびたび言及している*2が、二番目の章では、過去の酒鬼薔薇聖斗事件、宮崎勤事件との比較検討を試みている。
これら2つの事件に宗教性を大澤はみる。一方で、殺人の「宗教的な構成」という点で共通する以上の事件と対比すると、秋葉原の事件は、「世俗的なもの」に見える。
世俗的とここで大澤がよぶのは、跡にのべるような世俗的な不満が犯罪の要因になっているように見えるからだ。つまり、高校生まで優等生だった容疑者Kは、その後、挫折し、次々に転職する。また、女性にももてず、その結果、社会にたいする怨恨を募らせ、オタクの聖地といわれる秋葉原で犯罪に及んだ――メディアが伝える夥しい言葉の数々は、こんな枠組を我われに想像させるに余りあったのだから。Kにあるのは、大澤のいうとおり「高収入のよい仕事がない」とか「女性に好かれない」という不満だというわけだ。

その上で、「しばしば、徹底した世俗化が、その反対物であるはずの宗教化と連動しているという事実」を、「神学の過激な破壊者として思索を開始した」カントが、最終的には理性の守備範囲を限定して、信仰のための余地を残したという一例を引いて指摘する。
そして、秋葉原の事件には、同様の逆説が存在するというのだ。

つぎの章で、非典型労働者の急増の背景について考察した大澤は、単純に何かから疎外されているのではなく、「からの疎外」の前提となる「への疎外」の圏内に入り込めていない、と強調する*3。つまり、非典型労働者は、「への疎外」からも疎外されているというわけだ。

こう考えていくと、「への疎外」からも疎外されている者が、そうした状態から脱出しようとすれば、世界という全体への接続を実感することが必要になる。

世界そのものを承認し肯定する眼差しの中に自らが含まれていることを、明確に自覚するしかない。
 そのような眼差しの所有者とは誰か。神である。

その神はどこにいるのか。Kはどこに神をみたのか。
本来、他人に見せるものではない日記が語りである以上、抽象的で超越的なへ語りかけられていると解釈する大澤は、日記の抽象的な神がウェブサイトでは訪れる具体的な他者に置き換えられているという。こうして書いているブログもそうなのだが、きわめて個人的なことが、本人の知らない、つかみどころのない他者に向けて語られる。この他者は特定の者ではなく、不特定の、匿名のそれ、しかし具体的な他者である。
大澤は、こうしてKの見た神とは、インターネットの中の他者という形式をまとうという。

ようは、Kが秋葉原にむかったのは、秋葉原がKにとって世界の中心だったからである。

世界の中心で絶対的な悪を犯せば、世界の中心で究極の破壊(否定)を遂行すれば、神としても無視することはできまい、この場合、「神」とは、秋葉原へと集まる、匿名的で多数的な視線である。

先の酒鬼薔薇にとっての祖母、宮崎にとっての祖父のように、信頼すべき重要な他者が、つまり神ともいえる人物が存在した。一方、Kには、神と同様に絶対的な存在である恋人もいなかった。
こうして大澤の論考は、「ただいまと誰もいない部屋に言ってみる」というKの書き込みへの言及で締めくくられている。

*1:「世界の中心で神を呼ぶ――秋葉原事件をめぐって」、http://www.yosensha.co.jp/products/9784862483157/

*2:最近では『不可能性の時代』(岩波新書

*3:真木悠介の疎外の二重の水準にもとづいている。「真木悠介は、「Xからの疎外」に論理的に先立って「Xへの疎外」があるという。貨幣からの疎外が苦痛で不幸なのは、人がまず貨幣へと疎外されているからである。すなわち、貨幣が普遍的な欲望の対象として指定され、人々を遍く捉えてている状態がまずあって、その上で、人々の間に貨幣から疎外されている層(貨幣を持たない層)と貨幣からの疎外に見舞われていない層(裕福な層)との区分ができうる、というわけである」と大澤はいう。