モノサシはどう使う。

本人が「ほんと」だと思っていることは、その人にとっては「ほんと」である。
私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている*1

だが、「ほんと」であると思うことと「ほんと」であることは別のことだ。ある人にとっては「ほんと」の(ように思える)ことが、他人がみて「ほんと」だとは限らない。自分が「ほんと」であると思うことが他人のいう「ほんと」と同じであるかどうかは、両者を比較してみないと分からない。

人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律するならば、「格差社会」などというものは存在しなくなるだろう*2

あるモノの量を測る場合、質を問うことはない。金属と紙は異質の物質だが、重量というスケールで異なる質の両者であってもその量的なちがいを私たちは知ることができる。たとえば金属10kg、紙1トンというように。一方で、異なる価値を同じモノサシで測ることはできないし、測ることもない。

測定可能なものであれば、それぞれ自分のスケールをもてとよびかけるべきではない。論理的に成り立たない。測定するということは検証が可能であって、自己完結的でないからだ。一方で、「自分なりの」度量衡があるとすれば、それは自己完結であるほかはない。内面での度量衡にすぎない。また、測定不可能なものだと思うのなら、「自分なりの度量衡を持つ」とよびかけることはしないだろう。測定不可能なのに、度量衡は無意味だし、役にたたないからだ。

もっとも格差というのは測定不可能と内田氏はいっているわけではない*3

格差が幻想的なのではなく、「格差は幻想的」という説が幻想を強いているように思える。

*1:内田樹ジニ係数って何?

*2:同;格差社会って何だろう

*3:所得200万円の人から見ると、所得が1億円の人も所得が10億円の人も「(雲の上の)同じ世界の人」である。だが、同じその人は所得500万円の人を自分とは「(同じ地上の)別世界の人」だと思っている。一方では9億円の所得差が「ゼロ」査定され、一方では「300万円」の所得差が「越えがたい階層差」として意識される。格差というのは数値的なものではなく、幻想的なものであるというのはそのことである。人は自分の等身大を原器としてしか、所得差の意味を測ることができないのだが、人が「自分の等身大」と思っているものは、ほとんどの場合、イデオロギー的構築物なのである。