[片言]自然科学真理教のこと


人文科学や社会科学がはたして科学なのかという意見がある。
どんな意見であろうと持つのはいっこうに構わないが、、ひとたび、人文科学や社会科学が科学を名乗るのは僭称ではないかといわれると、この分野の研究者ならずとも心安からずというものではないか。
客観的に検証することができるか、できないか。これが、科学と似非科学を分けるらしい。

その「似非科学」の、哲学者・土屋賢二氏がこの意見の反論にもなる、ぴったりの文章*1を書いている(「『巨大ヌエ』さらに解明を」、日経新聞・9月6日)。

経済予測が難しいのは、経済現象が複雑すぎるからだ。経済現象に及ぼす要因は無数にあり、すべてを考慮することができないのだ。

それは経済現象に人間が関与しているからだ。

自然界の現象とはちがって、人間の頭を経由する社会で起こる事象は、まさに人間の介在することによって複雑にされるのだ。しかも、「客観的に検証することができる」であろう自然科学は、言語という人間の発明した「道具」によってはじめて記述し、論理的に扱うことができるわけだ。

要は、上の意見の自然科学真理教は、自然科学も実は理解していないのだろう。
私は、「似非科学者」・土屋氏の見解をいうまでもなく支持する。

*1:リードは以下のとおり。経済学が斬(き)ろうとしている現実の経済は、非常に複雑で巨大なヌエのようなものだ。経済学者の予測が当たらないのも、経済現象が人間のきまぐれな行動で左右され、影響を及ぼす要因すべてを考慮に入れることができないからという側面が強いからではないか。