朝日社説;戦争という歴史―「千匹のハエ」を想像する


戦争という歴史―「千匹のハエ」を想像する(07・8・15)  全文

中学、高校で歴史を学ぶ皆さんへ。
今日は62回目の終戦記念日です。夏の暑い盛りですが、少し頭を切りかえて、あの戦争のことを考えてみませんか。
唐突ですが、千匹ものハエなんて、見たことありませんよね。
今年95歳になった映画監督、新藤兼人さんは、それを目にした日のことを鮮明に覚えています。


■醜さを伝える責任

新藤さんは31歳で召集され、翌年、兵庫県宝塚市にあった海軍航空隊で敗戦を迎えました。1年半ほどの軍隊生活でしたが、上官から理由もなくこん棒で尻を殴られる、惨めな毎日だったそうです。
そんなある日、命令が下りました。「本土決戦に備え、食料となるコイの稚魚を育てろ」
この作戦には褒美もついていました。エサになるハエを千匹捕まえたら、一晩の外出が許されたのです。妻に会いたい一心でやり遂げた仲間がいました。
びんにためたハエを新聞紙の上にばらまき、上官の前で1匹ずつ細い竹の先でより分けて数えていく。新藤さんは傍らで「正」の字を書いてそれを記録しました。998、999……、ついに千匹を数え上げ、外出許可をもらった時の、戦友の笑顔を新藤さんは忘れられません。
千匹のハエとはどんなものか。殺虫剤などの実験用に飼育する研究所で、死んだハエ千匹を実際に見せてもらいました。白い紙にばらまかれた黒い異様な群れ。これを1匹ずつ集めたのかと思うと気が遠くなりました。
一緒に召集された100人のうち、生き残ったのは6人だけでした。
戦争って、どんなものなのでしょうか。戦後の、豊かで平和な時代に生まれ育った世代には、なかなか具体像をイメージすることができません。
新藤さんは、戦争が勇ましく、人が死ぬことが美しく描かれている本や映画を見ると、怒りがわいてくるといいます。
戦争は醜い。個を破壊し、家族をめちゃめちゃにする。そのことをきちんと伝えるのが生き残った者の責任だ。そう考える新藤さんは、自らの戦争体験をもとに「陸(おか)に上(あが)った軍艦」という映画の脚本を書き、自ら証言者として出演しました。この夏、映画が公開されています。
特攻隊、集団自決、大量殺戮(さつりく)……。戦争のそこかしこに「狂気」があります。新藤さんが見たハエもその一つでした。


■アジアからの視点

今年初め、ある中学校の授業で、一本のアニメDVDが上映されました。
主人公の女子高校生が、見知らぬ青年と出会い、戦死者らがまつられている靖国神社に誘われます。
青年はこう語りかけました。
「愛する自分の国を守りたい、そしてアジアの人々を白人から解放したい。日本の戦いには、いつもその気持ちが根底にあった」
「悪いのは日本、という教育が日本人から自信と誇りを奪っている」
神社で手を合わせる2人。帰り道、青年は姿を消す。その青年は、じつは戦死した女子高校生の大伯父だった――。そんな内容です。
「誇り」と題されたアニメは、若手経営者らの集まりである日本青年会議所が「今の歴史教育は自虐的すぎる。子どもたちが日本に誇りを持てるように」との思いから作ったそうです。
「日本が悪いと思っていたが、そうではなかったことがわかりました」
「日本に誇りを持つようになった」
見終わった生徒たちの感想文には、こんな言葉が並びました。
でも、このアニメは、新藤さんが味わったような非人間的な軍の日常や、日本が侵略などでアジアの人々を苦しめたことにはほとんど触れていません。
会議所の依頼でアニメを見せた先生は後日、日本の侵略の実態についても授業で補ったそうです。歴史を教える難しさを痛感した、と先生は話していました。


■過去にせまる挑戦

戦争には、さまざまな「顔」があるということかもしれません。どこから見るかによって、見えてくるものががらりと変わってくる。
皆さんは、あの戦争について学校でどれぐらい学んでいますか。歴史教科書のかなり後ろの方にあるので、授業は駆け足になりがちです。
でも、戦争を学ぶための材料は、授業や教科書以外にもたくさんあります。
広島と長崎にある原爆の資料館を訪れれば、目を覆いたくなるような悲惨な被害を目の当たりにします。沖縄には、地上戦の裏で繰り広げられた壮絶な体験を語るひめゆり部隊の生き残りのおばあさんたちがいます。
それは、アジアの国々も同じです。中国や韓国には、日本の侵略や植民地統治、それに対する抵抗の歴史が刻まれた記念館などがたくさんあります。
私たちは、過去を体験することはできません。でも、戦争の現実につながるさまざまなことに触れたり、見たり、聞いたりすることはできる。そして、現実の戦争を想像してみることができます。その力を培うことこそが、歴史を学ぶ大きな意義だと言えないでしょうか。
見たくないものに目をふさげば、偏った歴史になってしまいます。一つのことばかりに目を奪われれば、全体像を見失う。いかに現実感をもって過去をとらえるか。その挑戦です。
62年前、家族に会うために、千匹のハエを捕まえた兵隊が確かにいたという現実がありました。
今日という日に、そんなことに思いをめぐらしてみてはどうでしょう。