なぜ「派遣村」を支持するか


年越し派遣村」がこれだけ話題をさらったのは、不況の深化と新自由主義の残した日本社会への傷跡がいかに大きかったのか、国民の少なくない部分が大なり小なりそれを受け止めているからだろう。メディアも無視することはできなかった。

派遣村」の取り組みは、本来、行政がカバーすべき分野であって、したがって、一連のいきさつによって、この問題での政府の実行力がほとんど皆無であることが明らかにされた。同時に、発端となったのが、解雇不可避を装うと表現してもおかしくはないくらいの、大企業の厚顔と横暴であって、大企業のこうしたふるまいがいかなるものか、今こそ、国民の関心がそこにも注がれないといけないことを、私たちに提示したのではないだろうか。
派遣というものが法律によって緩和され、しだいに正社員の置き換えによってそのウエイトを占め、一方でそうして大企業が膨大な利益を蓄積してきたという事実だけでなく、不況という事態になると、もっとも都合のように、まさに心を持たないモノのように扱われるのが派遣をふくめた非正規労働者であるという事実もまた、私たちの前に示したのであった。

正規労働者と非正規労働者という峻別が明確であればこそ、たとえば「努力すれば報われる」という言説、「自己責任論」、勝ち組・負け組をあおる風潮などに端的なように、分断と差別が受容される新自由主義を支えるための、ときの思想動員が貫徹されてきたといえる。労働者派遣法の施行と相次ぐ同法の改悪は、それを加速したといえるだろう。

こんにち、新自由主義のもたらした亀裂がさらに深まり、犠牲の及ぶ範囲がしだいに拡大し、圧倒的な部分がどこかおかしい、なぜこんな犠牲を強いられるのかと実感するにいたって、新自由主義の正体というものが認識されはじめたといえる。その沸点とはいわないまでも、今日の解雇・派遣切りはその最たるもの、こういった理解が広がっているのではないか。

だから、昨日のエントリーでふれたように、新自由主義によって自らの権益を確保しようとする勢力は、それを否定しようとする動向に少なからぬ関心をもち、抵抗するだろう。弁証法的に。
派遣村」の経験が報道され、人の心をつかもうとすればするほど、それをくさし、否定するような巻き返し、反攻がはじまる。
坂本哲志の発言はその典型の一つだ。「派遣村」がまさに手を差し伸べようとする労働者を、特殊な一部として他の労働者と差別しようという魂胆である。支配層の抵抗勢力を押さえ込もうとする際の、抵抗勢力そのものを分断しようとする常套手段だ。しかし、話は複雑で、支配層からのこうした攻撃だけでなく、対応勢力のなかからも、足を引っ張る動きが出てくる。私はこのエントリーで示したのだが、たとえば赤木さん。彼の意思がどこにあったとしても、一部を全体から切り離し、その違いを強調することによって一部を否定しようという意図は否定できない。

派遣村」に直接かかわった千葉茂さん(東京管理職ユニオン書記次長)が、朝日新聞「私の視点」(1・13付)で、「派遣村」にたいする支援と関心の深まりについて書いている。

千葉さんによれば、こんな反応があったらしい。

結局、あんたらの運動は、税金を使わせろということなのか。おれたち低賃金の労働者が納めた税金を何だと思っているのだ

こんな電話だったという。これにこう答えている。

契約解除された派遣労働者もずっと税金を払っていたんです。その使い方について訴えて何が悪いんですか。ぜいたくをさせろと言っているわけじゃないんです。屋根のある場所で寝かせてくれと言うのは間違いですか

千葉さんは、そのあとでこうのべている。至言である。

弱い者同士がいがみ合う構造から抜け出すことの重要さを、「派遣村」の活動は教えてくれた。

派遣村」の活動を支持し、強く私が期待するのはこのためである。
今回の大量契約解除は、労働者を人間として見ていない企業が強行した「人災」だ。それを許したのは、規制緩和を進めた政府である−−こう、千葉さんはのべている。事態をこれほど、明瞭に、しかも簡潔にとらえた言葉があるだろうか。
この点に、働く者は、その立場がいかに違おうと共感できるのではないだろうか。80年代から90年代に変わる時期に、そして少なくとも小泉「構造改革」が進められて以降は明確に、社会保障など国民生活に直結する部門の切り捨てと同時に、働く者は絞りに絞られた結果、極論すればただ大企業のみが富を手にしたのではなかったか。

規制緩和を政府に迫りつつ、働く者を非人間的扱いで働かせて利益を集中集させてきたのは、ほかならぬ大企業だった。それに手を貸したのは、政府にほかならなかった。そして、今日の労働者派遣法の改悪に手を貸したのは、自公だけでなく、民主、社民、国民新党の各党だったのだ。
大企業はその責任を果たさなければならない。政治は、一致して、大企業への規制を強く求めなければならない。
大企業の横暴勝手を正しうるかどうか、いよいよ重要である。それすら主張できないようでは何をかいわんやである。