「貧困の大国」アメリカの後追うニッポン。

日本もアメリカの後を追うようにしてさまざまなものが民営化され、社会保障費が削減され、ワーキング・プアと呼ばれる人々や、生活保護を受けられない者、医療保険を持たない者などが急増し始めた。アメリカで私が取材した高校生たちがかけられたのと同じ勧誘文句で、自衛隊が高校生たちをリクルートしているという話が日本各地から私の元に届き始めたのは最近だが、同時にアメリカ国内では、この流れに気がついた人たちが立ち上がり始めていた。

この把握にみられるように、日本は確実にアメリカの歩んだ道を何年か遅れて辿っている。
堤未果氏がこうのべるように、日本もまた民営化、民営化の掛け声のもとに民間企業に置き換えられた。たとえば、私たちがこれこそ国の仕事だと当然のごとく考えてきた教育や医療の分野で、国立大学や国立病院が独立行政法人に化けていったように。社会保障費の削減はいうに及ばず、毎年の自然増でさえ抑えこまれてきた。そして、ワーキングプアは全国民のうちの何分の一かを占めるほどの一大潮流となっている。生活保護世帯は減らないばかりか増えつづけ、一方で水際で申請にたいする圧力が強められているため、潜在的な受給希望者が少なからずいることは容易に想像がつく。また、医療保険の底が現実に抜けている状態は、当ブログでしばしばふれてきた。
さらに、紹介されている兵士リクルートは海の向こうのことではけっしてなく、とくに地方部で高校生を対象にした勧誘が繰り返されている実情は今や私たち自身が知りうるほどになってきた。

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)』で堤氏が追いかけるのは、底辺で懸命に生きる人たちの日常だ。
食の貧しさは肥満という結果で形にし、それを表す。たとえば貧困地域では無料・割引給食が提供されているが、当然、コスト削減の課題がついてまわる。学校側は常に効率化を考慮しないといけないため、少ない予算にならざるをえない。だから、給食でもファーストフード産業と契約する学校するでてきているという。これはおそらく洋の東西をとわないのだろうが、貧困な地域の子どもたちは家庭での食事もジャンクなものに偏りがちになる。その象徴ともいえる一枚の写真が本書に収められている。I am not fat と書いた13歳の少女の大きなお腹は、種々、読者に考えさせるにちがいない。

もう一つあげる。
日本では今、産科は「医療崩壊」を示す指標といえるくらい、もっとも地域の病院から医師が「立ち去っている」標榜科の一つだろう。そうして、病院から産科が撤退する結果もくわわって、「妊婦たらいまわし」という事態も生まれてきた。一方で、貧困が広がり、飛び込み出産が増えている。
こんな日本の産科だが、ではアメリカはどうか。それを堤氏が紹介している。その一節をあげてみよう。

「後で全部請求されますから、ただでさえ出産費用が高いのに、ティッシュと脱脂綿だけで35ドルのコストがかかるんですよ」
難産のために帝王切開したナンシーが最初に聞いたのは看護師の「奥さん。一人で起きられますか」という声だった。
「看護師はもちろん知っているんです。長くいればいる程費用がかかることをね。それだけじゃない、動けるようになった患者はできるだけ早く病室から出して次の患者を入れる。回転させるためにです」
「回転? 出産したその日にですか」
「私の出産は日帰り出産です。入院すると一日大体4000ドルから8000ドルかかるんですもの。今アメリカの多くの女性は、高すぎる医療費のせいで入院出産なんてできません」
アメリカには日本のような一律35万円の出産育児一時金制度がなく、すべて民営化による自己負担のため、所得による格差のしわ寄せが妊婦たちを直撃する。入院出産費用の相場は1万5000ドルだ。
「体は動かせるけどまだふらふらするって伝えたら、その看護師、親切に病室から外に出るための車椅子を持ってきたんですよ」とナンシーは苦笑いする。

話は、最後のナンシーの苦笑いに尽きている。
自己責任と効率化の徹底した姿がここにある。看護師の親切も、病院を追い出すための車椅子を差し出すという気遣いに転化させられてしまうという、何という皮肉か。
日本はまだ、アメリカの域にはたしかに至っていない。しかし、多くは貧困が原因の飛び込み出産が増加しているという日本の現実で、仮に医療費がアメリカ程度であれば、どんな事態に立ち至るかはおよそ見当がつくのではないだろうか。

冒頭の一節のあとに、筆者はつぎのように記している。

兵士やその親たちだけではない。民営化の犠牲になった教師や医師、ハリケーンの被災者や失業手当を切られた労働者たち、出口をふさがれている若者たちや、表現の自由を奪われたジャーナリストたちが今声を上げている。生存権という、人間にとって基本的な権利を取り戻すことが戦争のない社会につながるという、真実に気がついた人々だ。アメリカから寄せられてくるこの新しいうねりは、同じ頃日本で急速に拡がった憲法九条を守ろうとする動きに一つの大きなヒントを差し出してくる。

このアメリカの変化は、一つは今たたかわれている米大統領選でも垣間見ることができるのではないか。つまり、こうした貧困のもっとも底の部分にまで追い詰められた米国民は、ブッシュ現政権からの何らかの変化を期待し、ヒラリーに、あるいはオバマに期待を寄せている。しかし、その期待に彼らが応えられるか、これが問題である。堤氏は別のところで、ヒラリーも、オバマもその点では期待できない、同じだとのべている。05年、日本ではまさに集団ヒステリーともいえる経験をした。同氏は、大統領選の「狂騒」が、現状では、まさに日本での小泉への期待と同じものだと冷静に指摘している。

話を戻すと堤氏は、アメリカを貧困大国という。ならば、日本の現状は、半ば貧困大国といえるのかもしれない。
アメリカの歩んできた道を当たり前のように歩むのではなく、しばし立ち止まって考えてみることは、無駄ではけっしてないだろう。思い切って引き返すことが要る。
社会保障削減をこのまま続けることはできない、と舛添氏が吐露するのも、この道を進み続けるのに抵抗が強いからである。別のことばでいえば長年の自民党政治がゆきづまっているからである。
ようは、この道をすすみつづけるのか否かは、憲法にてらして考えるということだろう。すすみつづけることは、日本国憲法の理念からますます遠ざかることを意味する。



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