代議制民主主義のあやうさ

今日だけに限られた、特別な事象だとはもちろんいわないけれど、昨年後半からの閣僚たちの失態は目に余る。いうまでもなく失態の一つひとつが政権の首をじわじわと絞めたてていくことは、いまの野田政権の実情をみればただちに了解できる。しかも、「失脚」した防衛相の後継が、ひょっとすると前任者と同じ命運にあるのではないかと思わしめるほどに、これまた心もとない人物だと認識されるにいたって、民主党には面子が揃わない程度まで人が枯渇しているのではないか、そう率直に思ってしまう。その上、件の「仕分け」である時期、脚光をあびるように報道が組み立てられた結果、虚像ができあがった人物が暴力団との黒い関係を噂されついに交代させざるをえなかったのだから、ほぼ終末にもみえていわば当たり前の状況にもかかわらず、不退転、政治生命をかけてやり抜くなどと語って、ひとり首相が気を吐いているのがむしろある種の滑稽さを脳裏に焼きつけてしまう。あるいは断末魔のようにみえなくもない。

しかし、政治家を選ばれた民という意味でエリートと仮によべば、こうしたエリートたちの堕落は、その一部始終をここではあげないが、政権の首を確実に締め上げるという現実だけでなく、一方で、有権者にたいしては政治というものへの不信を広げていることも指摘せざるをえない。それは再三、伝えられる内閣支持率政党支持率にも端的に示されているように思う。この間の世論調査では平たくいってしまえば、民主、自民両党ですらそれぞれ20%前後の支持率にとどまり、支持なし層がおそよ4割から半数近くに達してい現状に日本の今はある。また野田内閣にいたっては最速で支持率を降下させている惨状ですらある。

わが国では、選挙によって国会議員を選ぶ代議制民主主義を採用している。これは、有権者がみずからの主体性を他者に委ねて代表してもらう政治システムだといいかえることができる。だから、今の日本の政治状況は、エリートたちが託された期待に応えられずに有権者の信頼を失してしまっているという意味で代議制民主主義の危機だとよんでもまちがいではない。いいかえると、代議制民主主義は、主権者である有権者という「政治的素人」が政治的エリートたる政治家に自らの主権を託してかわって政治をやってもらうシステムなのだから、政治のことが分かり、きちんとやってくれるはずのエリートの政治家たちが、そうではないものとして有権者に映ってしまったとたんに、危機がはじまるのではなかろうか。
あらかじめ主権者である有権者が、その主体性を政治家に委ねるという行為を前提としている代議制民主主義にそもそもこのような自己を否定するしかけが含まれているあやうさに注目せざるをえない。別の言葉でいいかえるなら、有権者は自分を自分で侵食してしまい、ついには主体性がいよいよ失われていくということになる。世論調査結果は、こうして有権者が支持する先を見つけ出そうにも出せない状況を示しているし、低投票率はこうした参加意識の低下を表している。だから、代議制民主主義はもともと代議制民主主義を否定する方向に動くというしくみを内在しているともいえる。

今日、地方政党の一潮流が台頭している*1背景もやはり代議制民主主義のもつ特徴を反映したものであるように思う。有権者はエリートに委ねてしまって自ら受動的になりやすいという意味では身勝手だから、複雑で解釈しようのないようにみえる政治をいかにもよく分かっていて、決断してくれるはずの政治家がひとたび信頼できなくなったときに、「素人」にも分かる内容で政治を説き、あたかも決断してくれる態度と行動をとる別の人物が登場し、有権者が問題を共有でき主体性を一瞬でも取り戻したかのように感じてしまったらどうなるか。それは、大阪市長選の結果が教えてくれている。

有権者を受動的にしてしまうことで危機に陥る可能性を内にふくむのが代議制民主主義であるのならば、いま一度自らの能動性をとりもどすために、それぞれ異なる形かもしれないが動き出すことからはじめるしかないように思う。それは、エリートを本来のエリートたらしめるための監視をふくめた政治へのコミットメントといえるだろうか。待っていては政治はかわらないのだから。

*1:それを以前のエントリで橋下現象とよんだ。