二大政党制は政治の安定をもたらすか

最近、閉塞感という言葉がいたるところで語られている。有権者に引き寄せてそれを考えれば、自らの生活が一向に上向きにならないばかりでなく現状から脱出できるかどうかさえ定かではない現実と、少しもそのジレンマに応答してくれない政治にたいする鬱積した不満が要因になっているのかもしれない。

ふり返ると、2009年に自民党から民主党に政権を変えてもよいという判断を有権者にさせたのもそうした有権者の意識が働いたにちがいないと思う。けれども、政権の顔が自民党から民主党にかわっても実際の政策がもちろん劇的にかわるでもなく、むしろ政権党としての民主党の未熟さが素人にも分かる程度に随所にみられるようになった今、有権者の政治不信は一段と高まらざるをえない。渡部恒三の以下の言葉は、こうした現状を前になんら有効な打開策を見出せない民主党の現状をふまえている。

民主離党騒動「泣きたい気持ち」 渡部最高顧問が二大政党論の敗北を宣言


民主党渡部恒三最高顧問は28日、産経新聞の取材に対し、同党議員9人が離党届を提出したことについて「私の長い政治生活で、(東日本大震災などにより)今ほど政治が大事な時はないが、今ほど政治が混迷し、国民から信頼されない状態も初めてだ。国民に申し訳なく、泣きたい気持ちだ」と語った。
渡部氏は「二大政党になれば政治が安定すると思って自民党を飛び出し、今日まで民主党でがんばってきたが、考えていた通りにならなかった。今、民主党がダメだから自民党に期待する国民の声もない」と指摘。また、「民主党内でも野田佳彦首相が頼りにならないから小沢一郎元代表にしようという国民の声もない」とも強調した。

発言によれば、二大政党制は日本に政治の安定をもたらすものだと渡部自身は考えていたことになる。だが、この渡部の思惑はそもそも正しかったのかどうか。二大政党制は日本の政治の安定に寄与するものかどうか。二大政党制の導入をめぐる若干の経過を加えつつそれを顧みる。

1955年の保守合同からいわゆる55年体制という構図が1993年に自民党が下野するまで長く続いた。その後、非自民連立政権というもちろんそれまでの日本では経験したことのない新しい段階を経由し、社民、新党さきがけとともに連立政権というおそらく自民党にとっては本意ではない形ではあったものの自民党が政権についたのは1994年のことだった。同じ1994年、衆議院選挙で小選挙区比例代表並立制小選挙区:300、比例代表:200)の導入が議決され、1996年の衆院選(第41回)から実施された。ちょうどこの選挙を経て自民党が再び単独政権を手中にしたことは記憶にとどめておいてよい。

日本では、西欧にモデルを求めるのが常となっている。明治維新以来の追いつき追い越せ政策のように。二大政党制をめぐる議論も西欧に範を求めている。しかし、これはそれまでの制度、歴史を西欧型に接続することを意味するし、裏を返せばしっぺ返しが何らかの形で訪れるのではないかという不安も与えかねない。いうまでもなく日本における二大政党制の実現は、選挙制度の変更を密接不可分のものとして追求されてきた。大スキャンダルとなったリクルート事件を発端とし、曲折を経ながらも、「政治改革」の名のもとに一体のものとして選挙制度の変更が位置づけられ、端的にいえばそれまでの中選挙区制から小選挙区制にいかにしてに変えていくのかに関心が集中してきたといえるだろう。中選挙区は、政権党をめざすかぎり同じ政党からの複数立候補もふくめて多数の候補者が議席を争う。そうした結果、政策で争うよりも候補者個人の争いというところに力点が移りやすく、実際、候補者の選挙活動は当時、候補者と有権者の個人的なつながりを軸にすすんだと考えてよいように思う。地盤という言葉に象徴されるようにその中での地を這うような候補者活動がいわば理想とされた時代でもあった。そうした候補者個人とのつながりに依拠するがゆえに、選挙資金がふくらみ、一方では贈収賄を生むという論理が組み立てられ、中選挙区の弊害が語られてきたといえる。こうした議論をへて、結果的には比例代表並立制として小選挙区が取り入れられることになった。

二大政党制は、有権者につまるところ2つのチャンネルしか与えない。しかし、つけくわていえば、有権者のもつ価値観は多様だし、支持政党もそれぞれ異なる。むろん政権を争う2つの政党だけとはかぎらない。けれども、小選挙区が1人の当選者を決める選挙制度である以上、得票第1位の候補者以外に投票した有権者の票は死票になる。たとえば、3人の有力な候補者が議席を争ったとする。それぞれの得票率が上位から35%、33%、32%だったと仮定しよう。当選者は第1位の35%を得票した候補者だが、2位、3位の候補者の合計65%の票は死んでしまう。有権者の意識は自分の票を生かそうという方向に働くので、その結果、有権者の投票行動はしだいに議席を争えそうな2つの政党に収斂されるといってよい。
支持なし層の拡大が指摘され久しい。二大政党制を志向する制度改革が投票行動を徐々に2つの政党に回収させていく一方で、支持なし層を広げてきたともいわれる。たしかに、小選挙区制導入前後の支持なし層の占める割合(%)をみてみると、その傾向を確認できる。小選挙区が導入された1996年の衆院選の前後で明らかに差異がみてとれる(下表、回答率は「支持なし」を回答した割合%)。

調査年 1973 1978 1983 1988 1993 1998 2003 2008
回答率  31  34  32  38  41  52  57  46

NHK放送文化研究所「現代日本人の意識構造[第7版]」

小選挙区制はこのように有権者を2つの政党支持層とそれ以外の層に二極化させ、一方で支持なし層の拡大を招く可能性をはらむだけでなく、候補者にも当選できそうな政党に所属しようという判断を迫る傾向をもつといわれてきた。
それならば、渡部の嘆く事態はどうみることができるのか。そもそも民主党政権は、小泉純一郎時代のいわゆる郵政選挙以来、安倍・福田・麻生と総選挙を経ずに首相が交代してきた自公政権を、第45回衆院選(2009年8月)での民主党の圧勝を受け、社会民主党国民新党との連立で成立している。同衆院選では、自民党が"日本を守る、責任力。"をスローガンに掲げ防戦の構えが強く感じとられた一方、「政権交代、国民生活が第一」と民主党が訴えたことにも表れているように、政権交代か否かが最大の焦点となり、有権者の期待もそこにあったといえる。
しかし、民主党保守政党としての性格は、主要な幹部の出自をたどれば圧倒的に自民党出身者が多いことに象徴されている。小選挙区制にもとづく二大政党化をめざす上では、政権交代前後の民主党の政策を振り返るとよいが、多数の支持を得て第一党になるために政策的には幅広さを求めていくことになる。今日の民主党政権の一種の混迷は、出自に表される保守政党であるという基本的な性格と、政権交代と対に提示されてきたマニフェストに記される幅広政策とのジレンマに十分に対応できていない姿のようにもみえる。今日の日本の政治体制を仮に二大政党制とよんだとしても、交代前の自民党の、そして現在の民主党の政権もまた連立政権であるように、それは、たとえばイギリスの二大政党とはもちろん根本的に異なる。
渡部の嘆く今日の事態は、2つの政党の政権交代による二大政党制をめざした「政治改革」論議を経て、小選挙区制が実施され政権交代は実現できたものの、自民党民主党という2つの政党の間に根本的な政策的相違がない点にこそゆえんがあるのではないか。政策的相違がない自民党民主党にたいして、有権者自民党ではダメ、民主党はOKという審判を下したのではなく、政権交代という事象にこそ期待を託していたといえると思う。ドミノ離党とマスコミが喧伝する議員の動向は、さきにのべた「当選できそうな政党に所属しようという判断を迫る傾向」と重なりをもつと考えてよい。二大政党制は、有権者に2つのチャンネルしか与えないといったが、そのチャンネルから排除される有権者の一部、しかもすくなくない部分を必ず生み、政治不信や不満を有権者に抱かせる結果となる。だから不安定だといえる。そして、政権交代の結果、有権者の前に現れた政治もまた、以前とそれほどの違いがないわけだから、今やその2つのチャンネルのどちらにも有権者が愛想を尽かしつつあるのも分からぬことではない。そうした場合、急進的な政策を主張する潮流がしばしば登場することも歴史は教えている。2つのチャンネルに疑念をもつ有権者に残された唯一の選択肢だと誘導する潮流が一つのものになっていく過程に今あるのではないか。大阪の選挙結果とその後の政治動向はこうした不安定な現状をまさに表現しているといっても過言ではないように思う。