沈黙の螺旋再び

国会が閉会したところから政治がはじまる。
伝えられるニュースはそのままこれを裏づけているかのよう。新しい勢力を構築しようとするねらいとそのための動き、政権政党内の亀裂、それに米国の動向が伝わってくる。野田にとっては、どこかでそれぞれがつながっていて手をつけようとすると、また別の問題で波風が立ち袋小路に直面、それでたちすくむかのような今日があるように思う。不退転の決意は、どうも決意のままで終わりそうな気配が強い。消費税にしても、党内でさえらまとめることもできず、基地移転にしても、米国議会ではグアム移転費用が予算から削減されるなど、状況がすでに野田の決意を翻すよう求めているとすらみえてしまう。

だから、よけいに橋下への期待を、野党の自民党だけでなく、小沢もまたあけすけに語る。野田政権3カ月をへて、新しい展開に入ったとみてよいと思う(参照)。少しだけ先読みすれば、この「新しい段階」は、メディアの強調する方向に、つまり橋下がらみで政党の再編・離合集散を加速していくだろうと考えることもできる。それを、メディアがあおり、そして少なくない有権者が後押ししていくという構図を描いてしまう。これはこちらが望む方向ではない。かつての小泉政治民主党への政権交代にも期待をよせることはできないという立場でながめてきて、今回の「新しい段階」は平たくいってしまえばその繰り返しのような気がする。

この考えにそってみると、ではなぜ繰り返されるのかという疑問が残る。歴史は繰り返すというのが格言としてある。仮にそういったところで、先にまったく進まない。以前に沈黙の螺旋理論についてふれたことがある(参照)。この仮説にしたがって今日の状況をみてみるとどうか。沈黙の螺旋理論は、ノエル・ノイマンの仮説。少数派が多数派の数に押されて意見を出しづらくなり、その結果、ますます少数派の存在が軽視されてしまう現象を沈黙の螺旋とよんでいて、つぎのとおり整理することができる。

  • 人は自分の支持する意見を、社会で支配的な意見か否か、またそれが増大中の意見か否かを知覚する。
  • 人は自分の意見が社会で支配的であると感じている人は、それを声高に表明する。
  • 一方、そうではないと感じている人は、沈黙を保つようになる。
  • 雄弁は沈黙を生み、沈黙は雄弁を生む螺旋状の自己増殖プロセスの中で、一方の意見のみが公的場面で支配的になる。
この4つの論点をひきつけて考えてみて、集団の中でこんな経験をした人は少なくないように思う。討論でも会社の会議でもよいが、手をあげて発言したものの周りの誰も賛同せず、その場が白ける。結局、その後は発言しづらくなり、大勢が決まっていく。クラス討論でどんなときでもオピニオン・リーダーの彼が口火を切り、やんやの喝采をあびた。その後、威勢よく反対の立場から自分が発言し、何人かから連なる意見が続いたものの、その後の討論の結果、一人、二人と自分と同じ意見の人がその場の多数を占める意見になびいた。こうした懐かしくもあり苦いものでもあるかもしれない体験の一つひとつは、ノイマンが示す仮説に合致しているようにみえる。人は、自分の周りの環境/世論を常に意識し、世界と自分の位置とを確認するためにメディアも参照するし、孤立する不安を大なり小なりもつと考えれば、この仮説も生きると思う。
これを今の政治に移しかえたらどうだろうか。当たってはいても、外れてはいないようにみえてしまう。雄弁が沈黙をもたらし、沈黙が螺旋状に広がる中で雄弁が支配的になるというこのノイマンの仮説は、同時に、「悪魔の代弁者」が準備されることを克服の条件としている。何とまあ極端な響きの悪さだが、条件はつまるところ少数派、多数派にあえて反対する者の存在にかかっているといえる。民主主義を精神とする以上、だから政治の世界ではサヨクをはじめ少数派の存在を尊重しないでは成り立たない。政治の世界でなくとも、マイノリティがどんなときでも排除されないような前提がなくては民主主義とはよべない。なので、選挙制度が議論される場合、少数派を排除することが眼にみえている改革案なるものにボクは反対する。また、少数派を排除・差別するあらゆる動きを許すことはできない。
今の時期は、まさに支配的でありつづけようとする/なろうとする勢力がメディアの加勢をうけ、沈黙を迫ろうとする局面にあるのかもしれない(*)


* 以下のエントリの橋下の言動はこれを端的に示している。
    橋下は市長として務まるか。。