二郎イズムの困惑


山口二郎先生の所説も、先が見えない政権のかじとりを前にして、いよいよ暗いものになっている。
彼の鳩山政権の政策形成方法というエントリー(参照)では、まだ試行錯誤が続いているという評価だけれど。
しかし、「一部政治家に能力を超えて仕事や情報が殺到するという現在の状況を改めなければ、この政権は持続不可能になるであろう」と政権の行方にも言及しているし、それは結論めいたものだともいえる。
山口がいうように、一部政治家に情報も政策形成が集中するのは巷間、伝えられているとおおりなのだが、むしろ、その極度に限定された政策形成がそのまた一部の実力者によって決定されるシステムが作られていることにこそ、注目せざるをえない。
それこそ(政権党の名は)名ばかりの実態といえる。ころころとかわる閣僚たちの見解は、その裏返しともいえる。強権が民主を駆逐する。昨日のエントリーでふれたように、これが同党の現状を表現するものだろう。
政権は持続不可能だとうという見立ては、これまで政権交代をもちあげてきた山口にとっては、自らの過去の所説をすべて振り返り、自己批判も辞さないという覚悟がなければ、できない。そう簡単に語れるものではない。が、この人物にかぎっていえば、過去を忘れてしまう性癖があり、その限りで一貫性がなく、おそらくそう語る今、彼はまさに傍観者的な立場から政権の行状をながめているといってよいだろう。

政権のゆくえにもう白旗をこうしてあげているとも思えるような始末だから、彼の話の展開は容易に推測できる。人材利用のミスマッチの典型を語り、事業仕分けという構造改革と等しい手法についてはその「細かいところで目に見える成果を上げようとする]姿勢を問い、与党議員の議論の場を確保せよと迫っている。

ではどうすればよいか。自問した結果、彼の出した結論は、つぎの2点。
1つは、国会の委員会を活用するという方法。
2つは、民主党自身がシンクタンクを作ること。

だ、そうだ。
しかし、前者はすでに逆の方向で事態は、動いている。その動きはまさに冒頭にのべた現政権の強権ぶりを示す典型だ。国会改革法という、耳障りのよい法案を通常国会の冒頭で提案、強行採決も辞さないという民主党は覚悟らしい。なぜそう急ぐのか。答えは簡単だが、小沢が主導し、まさに山口のいう政策形成を一手に掌握するシステムこそ議論に付されなければならないだろう。2つ目も、形のなったものとしてはないのかもしれないが、シンクタンクの役割を果たしている人物が現実に存在することは常々、報じられているではないか。当の山口氏には声がかかっていないのかな。
民主党による政権交代をもっとも強く唱えてきた人物の一人なのだから、持続不可能になるという自らの見立てを一片するくらいの踏み込みは必要だろう。上の二つは、端歩をつくような、いわせれもらえばつまらない提案にすぎない。これでは、政権を持続させることはできない。
当面は、国会軽視の国会改革法を阻止することである。国会をたとえば行政の監視というその機能にふさわしいものにすることだ。自民党政権と同様、議席の大小で極端に質問時間を制限するなどの手法を取りやめ、与野党議員の質問時間を十分にとり審議の充実を図れ。政党の力を歴然としてくるにちがいない。
さらに、普天間基地移設問題は政権を揺るがしているし、解釈改憲につながる国会改革法の上程は日本の将来をある意味で決めることになる。

表題の二郎イズムとは、まったくの造語だが、政権交代を(支持しない人は排除することさえ厭わない態度をとって)さんざん語っておきながら、そして政権について傍観者的に瑣末なことしか(これまで同様)語らない氏の思考を指している。むろんプチ二郎イズミストはネット上に数多い。彼/彼女は、語る内容の瑣末なことでは、むろん山口二郎に劣らない。自らのいってきたことに責任をもてよ。
政権の前後の党首の「政治とカネ」を語らず、語ってもとんちんかんな珍論をのべ、あげくのはてには(自ら支持してきたはずの民主党政権の)閣僚の一人をアホよばわりしたりという始末。普天間基地移設問題や国会改革法には口をつぐみ思考を停止する。
彼/彼女らが困惑しつつ、そんな行動をとる姿が目に浮かぶ。