政治主導とは小沢主導に等しい。


「花・髪切と思考の浮游空間」に以下の記事を公開しています。
政治主導とは小沢主導ということ


結構、世間的には評判がよいような事業仕分けです。しかし、当ブログは何を、どのように切り分けるのか、その視点について疑問をのべてきました。それはたとえば、枝野幸男が「制度の根幹には触れない」といった思いやり予算の扱い方に端的に表れているように思います。聖域はもうけないという立場ではなかったのか、ということですね。

スパコンの扱いをめぐって周囲から相当の反発があがり、菅直人事業仕分けで凍結となったものを、昨日のテレビ番組で、当然見直すと答えるなど、修正される勢いです。同日の別の番組に出演していた枝野も、仕分け(会議)の勢いをまったく消失させ、その態度は修正をにおわせるようなものでした。
こうした蛇行は、政権についてのち、ひんぱんに繰り返されていて、目新しいものではありません。が、政権奪取後の初めての国会の現状は、予想されていたこととはいえ、実に厳しいもののようです(参照)。

きょう現在、政府が国会に提出した法案で参院に送付されたのは、共産党からないよりあったほうがましと揶揄された、その程度の中小企業金融円滑化法案だけ。それも、先にのべたように強行してまで衆院を通過させたものにすぎません。
ですから、例の強行採決という挙にも出る。けれど、これは、野党時代の民主党自身が自公の強行を厳しく批判してきたことにてらしても、自らに跳ね返ってくる問題です。
世間の厳しい批判にあって、やはり登場するのが小沢一郎。小沢は、強行強行では国会軽視と受け取られかねないと応じたとか。これもおかしな話で、「政治主導」を名目に国会での官僚の答弁を禁止するといってきたわけですが、その目的は、小沢の自論の内閣法制局長官を排除することです。国会改革とは、このように、憲法の平和的条項を維持しなければならないと考える人にとっては、この内閣法制局長官の排除が解釈改憲に道を開く一つの階梯であることはすぐにも分かることでしょう。コンナ国会改革を推進しようとする小沢が、国会軽視というのは滑稽にすぎます。

与党と野党の議論を促進するといっておきながら、法案の強行採決を図り、批判が強まると、方針転換も辞さない。官僚政治の排除をかかげて、自らは官僚出身者を人事配置し、訳の分からない釈明でお茶を濁そうとする。この図式は、この党に貫かれている。

政権について間もないのですから、運営の稚拙さが表に出ることもあるでしょう。その限りで大目にみないといけないのかも。しかし、民主党と同党政府のとる行動には、そてだけで規定できない側面がある。
メディアでは小沢の議席の周りに、国対委員長山岡賢次衆院議運委員長の松本剛明が頻繁に集まり、指示を乞うかのような場面が流れます。これはお世辞にも見栄えのいいものではありません。けれど、そのシーンこそ、この民主党という政党の、政党としての民主制の欠如を示している点で深刻なのではないでしょうか。
しばしば指摘されるように、小沢独裁色がそこにある。政党ですから、執行部が存在するはずなのに、そこの議論で一致して事が運ばれるのが常識的でしょう。
そういえば、民主党の弱点を衝こう衝こうとする余り、自民党幹事長の大島理森が自党の綱領改定にからんで、「民主党には党綱領がない。寄せ集めだから作れない」と皮肉っていました(参照)。一面であたっていて、政党の行動の規範たる綱領がないから、小沢の頭の中のことが行動となって現れてしまうともいえそうです。

民主党のいう政治主導というものは小沢主導のことだといわれかねない。この間の行動は、それを裏付けることばかりが続いているのではないでしょうか。
(「世相を拾う」09265)