新しい政権は何をやるのだろう。。

顔ぶれがどうのこうのをここでのべるつもりはまったくありません。そうではなく、新しい政権がどんな政権になるのか、そして国民のための政治を推進してもらいたいという思いだけが強くあるものですから、政権がその立場に立てるか否かを思うわけです。
そして、本日から当ブログのカテゴリーが一つ増えます。鳩山時代というそれが。

昨日は、小泉以後の3人の首相が信を問わずに総理大臣についてきた過程に言及しました。
安倍、そして福田は、つまるところ小泉の新自由主義的な施策を推進するということとともに、そのもとで生まれた社会的な亀裂を修復するという2つの相反する任務を背負うために誕生し、存在したといえるでしょう。
昨日エントリーでは以下のようにのべましたが、少しだけ補足すれば、麻生首相とその内閣の性格もまた、この枠組みのなかに位置づけられると私は思います。

逆にいえば麻生氏のやったことは、特筆すべきものは、よい意味でも悪い意味でもないといってよいに等しい。何もできなかった内閣だということです。首相が仮に麻生氏以外の人物であったにせよ、こう断定できるような状況にすでに自民党が置かれていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

これが昨日エントリーの表現です。
少し踏み込むと、安倍から福田に交代する間に参院選がおこなわれています。周知のように、この選挙で、民主党が結果的に大勝した。この大勝は、「ねじれ」を国会のなかにもたらす結果となって、そのことを理由に政局は大きく動く。福田・小沢の密談と大連合の志向がそこにあった。結局、これは不発に終わったのですが、密談は、民主党側からすると、選挙中の小沢を中心にした左シフトの強調を自ら修正することを意味したと私は考えます。大連合が結果的に失敗に終わり、小沢は辞任を表明したのです。以後は外形的には、対決があらためて強調されてきたのではないでしょうか。

福田のあとを継いだ麻生首相に残された選択は、したがって、民主党との「対決」点を鮮明にすること。なぜなら、そうしなければ、そもそもの内閣の出発時点から解散・総選挙を実施する内閣という刻印を周りから押されきた経過にも応えることにならないのですから。麻生の思惑どおりには結果的にすすまなかったといえるのでしょうが、解散は、議員任期満了のいわば直前になってしまった。それだけ選択肢が次第に狭まりつづけたということにほかなりません。
ですから麻生内閣は、選挙を実施する内閣であったわけで、同時に自民党を勝利にもたらすことも任務であったはずですが、小泉以後のいわば決定づけられた基本的なベクトルの方向をかえることはできなかったのでした。

そこで、新政権に話を戻すと、新政権もまた、以上の小泉政権以後の流れから決別することはできないということです。つまり、新自由主義改革を推進する課題とそのことによって生じた社会的な分裂を修正するという課題です。
麻生内閣時代を振りかえってみると、麻生首相が国民にむけて発信したことがあります。
その一つは、消費税であって、いま一つが分権化の問題でしょう。さらに憲法の問題があるでしょう。これらをどのように処理をするのか、民主党新政権に求められています。
最初の二つは、社会保障にかかわっています。
小泉改革のなかで社会保障は常にやり玉にあげられてきました。以来、医療費の3割自己負担、年金改革、介護保険改正、障害者自立支援法の実施、後期高齢者制度の導入、生活保護老齢加算母子加算の廃止という具合に連続しました。これらがいわゆる弱者を対象にしぼった新自由主義的改革であったことは論をまちません。これらは路線の貫徹の結果であって、その意味で新自由主義改革はこれまで成功を収めたといえるかもしれません。
これらに、新政権がどんな対応をするのか、これが一つひとつ問われています。考えてみると、自民党の政治から国民が離反していった大きな要因には、こうした社会保障分野での連続的な改悪があったと思うのです。

消費税を社会保障を目的に増税しようとする方向が説かれています。また、地方の分権化をいわば踏み絵に自民、民主に迫るという、奇っ怪な動きさえ表出したではないですか。これなど、まさに新自由主義的改革の継続性を求める、飽くなき支配層の心性を物語るものではないでしょうか。
その先頭に立った橋下は、民主党支持を打ち出すことになりましたが、こうしたしかけそのものが、すでに新政権の性格づけを誘導するものにほかなりません。
地方の分権とは、社会保障・福祉などを地方自治体の責任に転嫁してしまうものといいきってよいでしょう。分権化したときに、国と自治体の財政配分が、そして地方消費税の割合をどうするのか、まったく分からない現段階で、こうした分権推進論者が大手を振って登場し、自治体首長の代表であるかのような顔をし吹聴するのは、社会保障・福祉や教育にかかわる国の責任負担だけが確実に軽減され、その分、社会的サービスの新自由主義的効率化の圧力が強まるからであって、この方向を支持・推進する橋下らは、むしろこの点に言及することを避けながら、地方自治体の裁量があたかも増すかのように映し出し、(新自由主義的)改革の推進役をかってでているのです。

この橋下らの方向は、自民党と少なくとも今回選挙では決別しようとした国民の意識のもとになったそのものです。ですから、橋下らに踏み絵を踏まされた新政権が要求されたようにふるまえば、そこに矛盾が生じるわけです。

当ブログでは繰り返していますが、具体的なレベルで新政権に迫ることが必要だと私は思います。すなわち、たとえば医療費の3割自己負担で、年金改革で、介護保険改正で、障害者自立支援法で、後期高齢者制度で、生活保護老齢加算母子加算で、新政権がどんな態度をとるのか、これはきわめて分かりやすい形で私たちの前に示されるでしょうから。
自民党の政権を終わらせたという、国民は仕事を成し遂げました。そしてその仕事が本来の意味をもつのは、具体的なレベルで新政権に迫り、そこに変化がうまれてはじめてそうだといえるのではないでしょうか。
(「世相を拾う」09190)