政権交代という頂の向こう


「花・髪切と思考の浮游空間」に以下の記事を公開しました。
政権交代の頂からみえる光景


政権が交代するという一つの頂に達しました。
私は山登りが好きなので、こんなことを想像するのです。私の経験では、頂をめざすまでの間、最も苦しい時間に一面では私自身があるとき、私の頭にはただただ頂上をめざすことしかなく、一歩一歩、少しでも前へ前へ、高く高くすすもうとする意思に私自身は支配されるのです。前提には頂に達すれば、適度の達成感に満たされるだろうという思いがある。

こんな登山にたとえると、とにかく自民党のやる政治はもういやだという思い、そこから抜け出そう抜け出そうと多くの人が考え、この一点で、歴史的な選挙結果を導き出したわけです。そうして、現実に、長年続いた自民党政権から民主党という、自民党ではない政党が政権を握るという変化がもたらされました。
ところで、山登りでは、疲れたあと、頂上で一服するのはとても心地よく、平時の、あるいは平地で食べるインスタントラーメンでさえ、山の頂で食すると格別なものなのですね。しかし、政治の世界は登山と同じようにはいかない。極端なことをいえば、今日は今日でしかなく、明日はまったくみえない境遇にさらされている人びとがこの日本ではたくさんいるのですからね。まったなしといわねばなりません。頂から遠くをながめ、どのように次の峰をめざすのか、あるいは下山していくのか、決めなければなりません。

昨日のエントリーで強調したかったのは、政権交代がすなわち政治の変化と等しいということではまったくないということでした。これまでの自民党がやってきた政治からの変化は、国民が導き出す以外にないのかもしれません。昨日は、国民本位という言葉を使いました。が、そんな国民が主人公になる政治を手にしようと思えば、まず国民が声をあげないといけない、かかわらないといけない。たとえば民主党政権有権者に約束をしたことを守らせる働きかけが必要です。それにそむくのならば、倒閣も辞さないくらいの決意を国民がもちうるかどうか、これが重要な気が私はしてなりません。

国民が主体的に状況を切り開かないといけないと強く私が思うのは、つぎのような理由があるからでもあります。
懸念するのは、自民党以上に改憲や消費税増税に道を開く役割を民主党が果たすのではないかということです。かつての15年戦争に日本がそれに突入する際の翼賛体制と同じものを今日、形成する上で、民主党政権が役割を担う可能性を少しも否定できないと考えるからです。政党の再編をふくめて。
そもそも私は民主党の結党そのものを二大政党制とかかわるととらえていて、自民党民主党の政権の交代があろうとなかろうと、それにはかかわりなく二大政党制というのは安定装置であって、保守政治の枠組みのなかに日本の動向をおしとどめようとする支配勢力の強い意思をみておかなくてはならいないと考えているからです。
そのような立場から限定して今回の政権交代をみるならば、交代の政治的な意味あいはほとんどないに等しい。政権が交代するといっても、派閥の交代ほどのものでしかない。むしろ民主党にたいする国民・有権者の期待を逆手にとって、一気に支配層の思惑を達成しようする契機に、今回の政権交代が位置づけられる、位置づけようとするねらいすら最悪の場合は考えざるをえないと私は思うのです。

しかし、それは同時にこうもいえます。
長年の自民党政治の反国民性が暴露されつつあると。
ですから、これまでの自民党と同じように民主党もふるまうのであれば、たちまち国民・有権者からの離反を招かざるをえないというものです。民主党は、当ブログで再三、強調するように、支配層からの使命を受けて政権を運営せざるをえないという一面と、反面で自民党とはちがう政治をおこなう可能性をいくらかでも期待させる政権として生まれでたという一面、この相反する2つの側面をもちつつ誕生しているといえるでしょう。
その意味で、だからこれから国民・有権者が役割を果たさなければならないと考えるのです。自民党が長年、財界・大企業と米国の意向に軸足をおいてやってきた政治を民主党が継承するならば、民主党もまた自民党と同じ運命を辿るようにしなければなりません。
そうした国民が状況を支配しうる、ある面でおもしろい光景が、山の頂のむこうにみえるのではないでしょうか。
自民党から民主党に政権が移るという今回総選挙のたどりついた結果、その頂からのながめは以上のように私にはみえるのです。
(「世相を拾う」09173)