電車の中の光景。


最近、よく見かけるようになりました。電車に乗るのは通勤時くらいのものですが。
電車の中の光景として記事が扱っているのは、電車という公共空間のなかで化粧という行為、つまり私事をおこなうことについてです。

【Re:社会部】電車の中の光景 


この産経の記事は「電車内で化粧する姿はだんだん、普通の光景」になるかもしれないと予測しているのですが、つぎのように接続することによって、この光景にたいする一つの価値判断を下しています。

公共の場という意識の欠如も感心できません。周りに気配りできない人が増え、皆が自分勝手に行動したら、どんどん住みにくい社会になるのではないでしょうか。

たしかに、昨今というか、この10年近くは、こんな社会の息苦しさを感じてきたのではないでしょうか。けれど、「周りに気配りできない人が増え、皆が自分勝手に行動した」としてもそれは部分にすぎません。少なくとも今現在においては。
むしろ住みにくさをわれわれが感じざるをえないのは、それが社会のしくみとして、大掛かりに生活を覆い尽くしているからでしょう。
記事に即して考えると、自己責任という名で何でも私事化(privatization)してきたのが、政府のとってきた政策でした。小泉構造改革はその典型でしょう。

公共というものは私や個と相互補完的ですから、記事ものべるように、私事が公のものになることもある。個人のとる行為が、他人に利益を与えることがあればもちろん、ないとしても、不利益を生じさせるものではないと理解されはじめると、公共空間でのその行為も等しく認められていくのです。たとえば、かつて女性は男性の数歩後を歩くものとされていたのが、男女が手をつないで歩くのに違和感を感じる人は今ではほとんどいないでしょう。こんな例をあげるまでもなく、「公衆の面前で」と敬遠されていたこと、ものが今日、日の目を見ているのです。

記者の眼はこの点で、このような変化に消極的な立場です。まあ、保守主義とでもいえるでしょうか。
それは、こんなところにもよく表れています。

 私の隣には中学生ぐらいの女の子と母親が座っていました母親は女の子に言いました。

 「あなたには、ああなってほしくないな」 

 女の子にはお母さんの言葉を聞いて、素敵な女性になってほしいなと思いました。<<
新聞は社会の公器ともいわれてきましたから、そんな見方からすると、記者には「住みにくい社会」の背景にある大きなものにふれてほしいと強く願うのですが。


注;花・髪切と思考の浮游空間に同文。