橋下発言との親和性。


橋下大阪府知事がまた物議をかもしている。問題答弁のパレード状態にも思えるが、気になったのは以下の部分。

橋下知事、“過激答弁”連発 相次ぎ議事録削除

10日にも共産党府議に「主張を通されたいのなら多数派をとってからぶつけていただきたい」と答弁

日本国憲法第93条によれば、普通地方公共団体は、原則、その住民に直接公選された議員をもって組織する議会を置くことが要求される。
つまり府議は、府民に選出され府議会を構成し、議会に付託された案件を審議、議決し条例を制定していくという任務をもつ。個々の府議は、自らが仮に所属する会派がどこであろうと、この任務を免れない。議論と議決に加わるのである。
橋下知事の発言は、だから、実は府議の発言に反論しているのではなく、府議の所属会派にむけられていると解されなければならない。つまり、少数派の共産党は黙ってろというわけだ。

そうなると、この発言は、単なる数の横暴や多数の上にあぐらをかいたという性格の問題ではない。
彼の「思想」の問題、つきつめれば少数排除の論理である。

都知事選の際、しばしば似たような意見に私はふれたし、実際、私のブログへのコメントにも今日の橋下発言と同様なものをその際、感じてきた。
それは、橋下氏は多数派という立場のちがいはあるが、現職の石原都知事を落とすために、候補をたてるのではなく、とって変わりうる最短の位置にいる浅野氏を支持すべきだというものだった。この立場に立って無茶な言説を繰り返したのが山口二郎氏だったと理解する。山口氏に象徴的な、言論で、あるいは実際の選挙戦で以上の立場を実践に映そうとした一群を、浅野応援団と仮にここでよぶ。

応援団の主張は一見、妥当な意見にみえる。勝つために候補を一本化すべき。なるほどそんな水準で選挙をたたかう場合もないわけではないだろう。だが、そもそもどのような都政を展望するのかで都知事選はたたかわれるわけだから、そこに根本的な差異があ(ると一方が考え)れば手のつなぎようはない。その際も首長選を争う際のルールがある。勝つために候補を一本化するという戦術をいうのならば、戦術として双方が一致しうる前提があるはずで、それを確認すべきものだと思う。

この旧浅野応援団のかつての主張は橋下氏のそれと通底する。率直にそう思う。両者の親和性を強く感じる。

最近は政治意識や政党の政策的位置を可視化する際、しばしば四象限がもちいられている。
が、ここでは簡略化するために、以下のように考える。
仮に政党の主張を線分に置き換え、自民党共産党(のトータルな主張)を両端に位置するものとし、自分がどの位置にいるのかを考えたとする。当然、両端のどこかに位置する。中には、自民党にも、共産党にも等距離でいたいという人もいるのかもしれない。
しかし、その際でも、つぎの枠組みから抜け出ることはできない。
反自民は親共産では必ずしもない。対偶はもちろん、反共産は親自民では必ずしもない、になる。つまり、旧浅野応援団もこの枠組みのなかに当然あって、選挙戦が「白熱化」し、そしてすれば、反自民(という意識)も高まるが、一方で、反共産(の意識)もまた高まっていった。ようは応援団が応援団として結束が高まり共同体としての意識が高じると、いよいよその外にある部分に違和を感じ、排除に向かう。そのように駆り立てていく意識は、ただ自らを反自民と位置づけているという意識ではなかったか。

では、橋下氏が上の線分のどの位置にいるか。
浅野応援団では、出発点を反石原(自民)として考え、橋下氏の場合は反共産から出発すればよい。それだけのことではないか。
思考回路は、私にはどうも同じものにみえてしまう。つまり、他者に自らの共同体とは違和を感じると、排除にむかうということである。別の言葉でいえば、自己中心主義ということだ。

さすがに、まずいと思ったのか(その限りで賢い? か)。釈明し、議事録から発言は削除されてしまった。


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