「正規が非正規を搾取する」(赤木智弘)のか。

赤木智弘の『若者を見殺しにする国』は、売れている。ぼくの『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』の売れ行きなど問題にならないくらいに。だって発売15日で2刷りだよ! この種の本でありえねえだろ。くそう。

橋本健二『新しい階級社会 新しい階級闘争』

こう語るのは、上記『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』の著者、紙屋研究所紙屋高雪
この書き出しではじまる一文で、紙屋がいいたかったことは、正規労働者が非正規を搾取しているという論点への、赤木の強い執着でもある。
この赤木の論点の核心である。サヨクの紙屋はもちろん、これに不同意だとのべる。
紙屋ならずとも、労働者による革命が社会をかえ、そうして資本家の搾取から解放される社会がつくられるとマルクスが考えてきたことにしたがえば、むろん赤木のこの言説に強い違和感をもつはずだ。
搾取とは、階級社会において、生産手段の所有者が直接生産者に対して必要労働時間以上に働かせ、その労働の成果を取得すること(とりあえず広辞苑)にほかならないのだから。
生産手段所有者が、直接働いてはいないのに、働いた者から成果を奪い取るのが搾取というわけである。

すると、正規とはいえ、生産手段をもたずに働く労働者なのだから、その正規労働者が非正規労働者を搾取するとは一体どういうことになるのか、誰しもたちまち「迷路」にはまってしまう。正規、非正規を差別選別する意思は、少なくとも雇用者のそれであって、正規労働者のそれではなかった。

赤木が着目するのは、非正規と正規という、資本家、別の言葉でいえば生産手段を所有する者が支配する雇用形態にみられる差異なのである。
だが、そうではなくて、生産手段の所有というものをあえて定立してこそ、搾取の姿はとらえられるのではないか。


この赤木が『「経済合理性」が生んだ搾取の構造 社会と企業は新たな“軸”をもつべき』という文章を、『週刊ダイヤモンド』(3月8日号)に寄せている。

そこで赤木曰く、

企業側にはかつてのような「従業員の生活に責任を持つ」姿勢はいっさいない。それもこれも経済合理性が世界全体を貫く主軸となってしまったことが原因である。そうした世界では、人間は経済を支えるための手駒でしかなかった。いわば「経済の自由」を維持するために、人間が搾取される構造になってしまっている。

けれど、かつて企業が従業員の生活に責任をもったことがはたしてあるのだろうか。経済が経済と自覚されるにいたって、人間が搾取を免れた時代があったろうか。
経済合理性ということがいわれはじめる前でも、そうした世界ではと限定せざるとも、人間が経済を支えるための手駒でしかなかったとはいえない社会がかつてあっただろうか。
こうみていくと、赤木のいうところはほとんど意味をもたないと私には思える。
つづけて、赤木はいう。

ニートやフリーターの増加などの社会問題を考えるとき、そうした「経済の自由」の対抗目標を考え、「労働者に対する社会や企業の責任」を定義し直す必要があるのだ。だが、「経済の自由」と同等の意味を持ちうる別の軸は、新たに創造されるものではない。そうした軸は、素朴でもあり、しかし力強い生得的なものであるはずだ。

素朴であって、力強く、そして生得的な対抗軸とは、それではどのようなものか。赤木は語る。

一つが「愛国心」だろう。たとえば「フリーターが正社員によって奴隷のように搾取されていることは正しいのか?」といた同胞を愛する感情は、有効な対抗軸となりうるのではないか。また、かつての家族形態を復興させ、男女のどちらかが働いて生活費を稼ぎ、それを結婚により再配分するような、「家族軸」も有効かもしれない。

というものだ。
この文脈では、いつの間にか、紙屋が指摘した、正規による非正規の搾取に置き換えられてしまう。しかも、奴隷的搾取。
つまるところ、赤木は正規労働者に自己否定を迫ろうというわけだ。
その上で、彼が、「経済や愛国心、そして家族など、さまざまな軸を複数巡らすことによって、誰もがどこかの軸で優遇され、べつのどこかで差別されるようになれば、それは結果として平等に近い状態になるのではないだろうか」というに至ると、ほとんど無内容を語っているとしか私には思えなくなってしまう。


たしかに、労働組合が非正規雇用者の組織に力を入れはじめたのは、長い労働組合運動の歴史からすれば、ごく最近のことに位置づけられるだろう。
しかし、それでも過去を振り返ってみると、こんな試みもあった。
たとえば地域労組などをとおしてパート労働者など不安定就業層を視野にいれて組織してきた経験もある。

また、中小(零細企業)で働く労働者の権利追求の課題は、すなわち中小企業の経営を守る運動と結合して中小の企業家とともに共通の課題でたたかうべきという観点が提示され、実践に移されてすでに数十年にはなるだろう。
要は、これらはひとくくりにすれば大企業・財界の日本社会の支配を問う運動であったといえる。労働者全体の権利や生活を守る上では、このような取り組みが不可欠だと思うのだが。

赤木がいうように正規と非正規の、そして正規のなかでの、あるいは非正規のなかにすら「格差」が厳然として存在する以上、生産手段をもたない、搾取の対象たる労働者の、その全体の生活改善をめざすためには、正規と非正規の差異を強い、正規のなかでの、あるいは非正規のなかでの「格差」をいやおうなしに強いる根本の構造にたちむかうしかけ、共同を必要とする。
その共同は今日、他階層の、たとえば中小の、零細の商工業者との共同をも少なくとも必要とするのではないか。


この赤木の言説とよく湯浅誠のそれとを対比して考えることがある。
湯浅は、格差社会の深化のなかで、所得格差や雇用格差、教育格差などが幾重にも一人の個人に覆いかぶさっている事実を強調した。なかでも、フリーターに共通しているのは、五重の排除だと指摘した。
その5つとは、教育課程からの排除、企業福祉からの排除、家庭福祉からの排除、公的福祉からの排除、自分自身からの排除である。

つまるところ、自分自身がこの社会のなかで生き延びる根拠そのものをも見出せなくなるという意味で、個人は社会から排除されるのである。
この湯浅の把握にしたがえば、赤木の視界の狭さは明らかだろう。
そして最近の「反貧困集会」など、非正規と正規の「共闘」はすでに新たな発展をみせていて、その意味で、赤木の視線を現実は凌駕しはじめているといえるのではなかろうか。


*「花・髪切と思考の浮游空間」のエントリーを一部、整理しました。