貧困ビジネスの行き着く先。


東国原宮崎県知事が徴兵制を口にしたことがあった(東国原知事の「徴兵制論」)。
彼の意図がどこにあったにせよ、戦争をしようとする国にとっては、兵士をどう確保調達するのか、重要な課題となる。
しかし、徴兵制をひくまでもなく、兵士を供給する源がないわけではない。
では、どうすればよいか。
堤未果の本を何度か取り上げた(堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』−あとを追う日本は…。)。
彼女が紹介する米国の実態は、この問いの見事な解を与えている。
そう。
兵士リクルータがいる。
彼らがねらいを定めるのは高校生たちであった。
しかも、ある一点で彼らは共通している。出身が貧困層だということだ。

最近、貧困ビジネスという言葉が目につくようになった。
これにしたがえば、リクルータたちはまさに貧困ビジネスに従事する者たちだ。
つまり、戦争はまごうことない貧困ビジネスなのである。
別のいいかたをすれば、貧困ビジネスの究極の姿が戦争だろう。

今日、日本では、多重債務がしばしば話題になる。
それだけ消費者金融が市場を拡大してきたともいえそうだが、多重債務がひんぱんに問題とされる背景を探れば、庶民の日々の生活苦という問題にいきつくだろう。
増税と負担増でそれはさらに広がった。
こう語ると、自然と、一方の空前の利益をあげながら、税を逃れている大企業を思わざるをえない。

ようするに、利益を確保する前提ともなったリストラや非正規雇用への置き換えで苦しんだのは、庶民であった。
生活は雇用形態に左右され、いよいよ不安定になった。

だが、こんな現状のままでも、貧困層、とくにワーキングプアとよばれる、巨大な層は、十分に兵士供給源になりうる。
食べていくために自らの生命をかけるという選択をせざるをえないわけだ。これも想定に入れておいてよい。
食うために働き、生きてきて、生きつづけるために、こんどは生命を危険にさらすという、何というジレンマ。

憲法25条。
「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されているはずである。
問いたいのは、貧困ビジネスの対象となる状態を、健康で文化的な最低限度の生活とよべるかどうかだ。
そこから脱却可能なように、個人の健康や生命を保障するのが25条の示すものだろう。
生存権とよぶこともできよう。
その意味で、国民全体が人間らしい生活を送れるように求める社会保障を保持していこうとする方向は、戦争をしないという意思と固く結びついている。