和田中の有料特別授業

「私立中に行かずに受験サポートを」
和田中の有料特別授業−新自由主義の試み(西日本新聞電子版1・26、ウェブ魚拓

話は、発案者の冒頭の一言に尽きている。
校長のこの発案は、「よい高校をめざす」受験競争に勝ち抜くことに価値を置くだけでなく、公立中にたいする偏見なしには、それが成り立たない。
この記事をみて、即座に例の混合診療解禁をもとめる東京地裁の判決のことを思った。その際、混合診療解禁を主張する人たちは、たとえば(反対する立場にたいして)「消費者・患者側の視点が見事に欠けている」(松井道夫氏)といった。
記事の「有料特別授業」も混合診療解禁も、たとえると二階建ての構造をめざそうとする点で一致している。混合診療の場合、保険でできる診療の範囲を一階だとすると、それ以上の−質のよいといってよいかもしれないが、診療は、自費の自由診療という二階なのである。同じように、「有料特別授業」の場合は、カリキュラムで定めている公立の授業を一階、校長のいう「受験サポート」が二階と考えればよい。
平屋より二階建ての方がもちろん建築費は高くなるのは当たり前である。お金の有る無しで差異が生じるわけだ。
このたとえで明らかなように、欠落しているのは、すべての人を視野に入れるということだ。同時に、ことは力の有無、つまるところ金の話になるわけで、「公立学校と進学塾の新たな連携」と記事にあるように、市場の拡大がねらいでもある。混合診療解禁では、民間の生命保険会社、この「有料特別授業」では塾会社というように。

以前に混合診療にふれた際、このようにのべた*1

松井氏の主張は、モノやサービスを金で買うという消費者の権利を強調しているのであって、すべての人がサービスを受ける条件をいかにつくるかという視点はそこにない。消費という形で差異が生じる。氏は、混合診療禁止で本当に困るのは経済的に余裕のない人たちだ 、とうそぶいている。ほんとうにそうか。経済的に余裕のない人たちは、すでに一部負担金の拡大によって、受診が抑制されている。医療から遠のいている。生活保護も受けられず、医療機関にもかかれない人たちが存在する。生活保護基準以下で生活する世帯が400万を超えたといわれる今日、仮に混合診療解禁になれば、どんな事態がもたらされるか、火をみるよりあきらかではないだろうか。

この「有料特別授業」には、松井氏と同じような市場開放を願う勢力の意思があるのを強く感じる。そして、それを後押しするのは、自己責任論という考えである。

「塾を嫌がっていた息子が『学校ならいい』と意欲を見せた。地域の愛情が詰まった塾で経済的にも負担が軽いのがいい」「参加できる子とできない子との間であつれきがあるかもしれないけれど、デリケートな部分をカバーしていきたい」

と、記事は父兄らの言葉を紹介しているが、この言葉の中にさえ私はそれを感じてしまう。

話を元に戻すと、発案者の校長が冒頭の言葉を発したときから、教育と擬似教育の接合がはじまったと私は思う。私は、教育とは、すべての人々が「個人の尊厳」、基本的人権を尊重し、お互いを人間として大切にすることを基礎としないといけないということをどこまでも原則とすべきだと考えている。端的にいえば個人の間にくさびを打ち込むことになる、記事が伝える動きは、これとは真っ向から対立する。反対だ。