石原千秋『国語教科書の思想 (ちくま新書)』


教室はまちがえることのできる空間なのだ。
教室はまちがいが許されない空間、というより返答や解答する際、まちがえないようにと意識はそこにあったから、著者・石原千秋のこの言葉は、どこか新鮮に響くものがあった。
つづけて石原はいう。 教室はまちがうことが許される空間である。もっと言えば、教室ではまちがえる権利がある。テストも同様だ。テストが教育の終わりなのではない。むしろ、テストは教育のはじまりなのだ。そのことがわかっていないから、テストでみんなが満点を取れるようにするのが「良い教育だ」という、とんでもない過ちを犯すのだ。 正解が出せなくてまちがってしまうレベルまで子供の可能性を試し、なぜまちがえたのかを考えることでその子供が人間として理解できる。それが教室のダイナミズムというものだ。
学生を卒業して相当の歳月がたつが、この著者の言葉が実感できる。解にめぐり会えたときの、あのいいようのない感覚と同じだった。 先の何十年も憑き物のようにとらえていた教室の意味づけ、いいかえれば教育の意味は、いまも厳然として世間に存在するのかもしれない。著者はそのことを懐疑し、本書『国語教科書の思想 (ちくま新書)』で、国語教育のあり方を根本から問うている。
考えてみると、明治以来、教育は政治のとりこになってきたといえる。つねにいわゆる「国策」のなかで教育は右往左往してきた歴史なのだ。たとえば、最近でも、石原が指摘するように「ゆとり教育」が相当の論争の末、2002年導入された。だが、どうだろう。今度は、巻き返すかのように学力低下論争が起こった。そのなかで「陰山メソッド」なるものが脚光をあびることもあった。そして、日本に大きな波紋を投げかけることになるPISA*1の結果が2004年、公表されたのだ。この結果に驚いた政府与党は、「いままでの教育に欠けているものがあるとすれば、競い合う心や、切磋琢磨する精神だ」(中山成彬文科学省大臣)というコメントを残すのが精一杯だったともいえる。
しかし問題は実は他にあった。それを著者石原は鮮やかに我々に提示する。つまり、教育の現場で、偏差値で輪切りにされた「どの子も同じ」ように見える集団ではなく、従順な子や尖った子やじっくり型の子がまだらに集まった個性的な集団として受け入れられるかどうか、ということである。そうではなくて、これまでの日本の国語教育は道徳教育であって、国語ができるということは道徳が身に付いているということだと、石原は喝破する。別の言葉でいえば、これまでの国語教育は、著者の言葉を借りるとつぎのようになるのだ。 国語教育は「正しい生き方」を教える、「教訓」が付き物の「お説教」くさい科目でなければならない。
こんな日本の国語教育のありようを前に著者はつぎの提案を本書で披瀝する。2つある。1つは、まず文章を図や表から、できる限りニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをできる限りニュートラルに記述する能力を育て、さらにその「情報」の意味について考え、そのことに関して意思表明できる能力をも育てる「リテラシー」という科目を立ち上げること。 第2に、文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるような能力を育てる「文学」という科目を立ち上げること これらはいずれも具体的で、しかも実践可能なものだと考えられる。 本書では、そのほか「一人ひとり」のレトリックがいかに危ういか、など興味あふれるテーマを扱っている。ともすれば、さらりと流れてしまいかねない国語教科書の中に潜む思想を抉り出し、それに対比して提案する著者の根源的姿勢が本書には示されている。

*1:生徒の国際学習到達度調査 Program for International Student Assessment。経済協力開発機構が世界41カ国の15歳の子供たちに実施した。