愛国者って何なの。


ふふふ。右翼の書いた本を読むなんて。自分でも笑ってしまう。実は、日本共産党が書評欄でこれをとりあげ、右翼の最大の標的にされてきたのがほかならぬ日本共産党だと思っていたので、その政党がこの本を取り上げたこと自体、私には興味津々だった。
鈴木邦男の名も、ある程度の経歴も知ってはいたが、読んだのはもちろんはじめて。本書『愛国者は信用できるか (講談社現代新書)』で鈴木が書いているのは、単純である。いや、著者鈴木が単純なのかもしれない。単純という言葉は否定的な意味でうけとられるが、ここではそうではない。むしろストレートといえばよいのだろうか。直截的といってもよい。だからこそ、先の書評が言及する、鈴木がのべる愛国者の評価に結びつくのかもしれない。その部分を紹介する。

愛国心というと天皇制が即座に連想される。「天皇制ぬきの愛国心だってあるのではないか」と言う人もいる。あると僕は思う。たとえば日本共産党はどうだろう。自主独立の党で、アメリカはもとより、中国、ロシア、北朝鮮とも距離を置いている。選挙のポスターには富士山が描かれている。最もこの国を愛している人々なのかもしれない。でも天皇制は嫌いだ。昔のように「天皇制打倒」とは言わないが、いつかは廃止したいと思っているのだろう。(本書92ページ)  
これが「新右翼」の代表格と目される著者の日本共産党観である。日本共産党がこの鈴木の言葉をどのように評価するかとは別の問題だ。なかには右翼の代表格が日本共産党をこのようにとらえていることに驚かれる人もいるかもしれない。

話はかわって、そもそも愛国心とは何か。著者によれば、愛国心とは「一体感」なのである(本書182ページ)。「個人と集団(共同体・国家)がつながっていると思うこと」「自分は一人ではないと思うこと」。
かくいう著者は、今日の動きを批判することも忘れていない。今の日本は、「ともかく愛国心を持て」「愛国心は常識だ」「愛国心さえ持てばいい生徒、いい日本人になれる」と言っている。冗談じゃない。そんな単純なものではない。だから、この本では初心に返って愛国心とは何か、を考えてみた。愛国心は宝石にもなるし、凶器にもなる。(本書10ページ)

だが、かつてマルクスが国家の「共同幻想性」を指摘したように、国家は自己にとって外在的なのだから、一体感といっても、その国家の性格と自ずと無関係ではない。鈴木の以上の表現はそれをまったく無視している。国家がどういうものかを問うことなくて、愛国心一般があるのではない。だから、この意味で、鈴木のいうところをあらためて問わねばならない。しかし、ともかく著者鈴木は「愛国心」の強要を戒めているのだ。それをつぎのようにも批判している。

愛国心は国民一人一人が、心の中に持っていればいい。口に出して言ったら嘘になる。また他人を批判する時の道具になるし、凶器になりやすい。だから、胸の中に秘めておくか、どうしても言う必要がある時は、小声でそっと言ったらいい。

右翼とは何か。それは、常に左翼の対立物にして相対的な存在。体系だった理論はおそらく存在しない。本書をみる限り、そう思わざるをえない。私は、鈴木を単純だと先にいった。それを別の言葉でいいかえるとすれば―著者本人は「偏狭」な愛国者から「寛容」な愛国者へかわったとのべているが―、情緒的といえるのかもしれない。本書には鈴木の単純で、情緒的な姿勢が余すところなく示されている。