それぞれの極上品


書斎というには粗末な環境で、どこにでもあるような文具を使ってきた私には、『書斎の極上品』というタイトルはまったく似つかわしくはない。
6、7年前の話。この時期、文房具に多少興味があり、ひょっとしたら凝っているのだと自分で勝手に考えていたため、何気に買ってしまった。
その本は、塙ちとさんの『ここで買える書斎の極上品 (小学館文庫)』。だが、一読すると、これが面白い。
この本は、極上品とそれを買えるお店を紹介するという形式をとっている。けれど、読み進むにしたがって、極上品の裏にひそむ一流の職人の息づかいが聞こえてくるのだ。
一例をあげる。松煙墨を紹介したところ。松煙墨をつくるには、古松を焚いて煤をとらなければならない。そのために「この地(和歌山県大塔村=coleo)では、山のなかに四方を和紙で巡らせた障子部屋を10数部屋つくり、そのなかで生松を焚いて、『黒い米』と呼ばれた松煙を採取した」のだ。

その伝統的手法を継承する、この本で紹介されている職人さんが語る。

「ひとりでやれるように、部屋の大きさ、竈の大きさを決めました。量が少ないぶん、こまめに面倒を見て、しょっちゅう可愛がっているわけですよ」

むろんこんな表現は素人のものではない。長年、この道にかけてきた職人ならではの、他にかえがたい愛着の思いがにじみでる。こんなルポルタージュがつづく。読者自身がまるでその職人技をこの目でみて、語りあっているかのような錯覚にいつのまにか陥ってしまう。
著者はあとがきで、「この本に登場してもらった14の道具は、使うことによって何かが創造される"もの"なのである。それぞれの道具を実際に手足を使ってわがものとしたとき、また新たな展開が始まる。それが、道具を使う楽しさだ」という。であれば、職人芸は、道具を使うことによって創造される何かを創造する過程で働く触媒のようなものなのか。これを読めば、だれもが道具を使ってみたくなるはずである。紹介されているのは、たしかに一流品なのだろう。だが、一流であろうとなかろうと、実は人それぞれがそれぞれの極上品はもっているものなのかもしれない。