平和の意味の拡張。


戦争がない状態を平和とよぶ考え方がある。その考えにしたがえば、この60数年、日本は平和だったということになるだろう。最上敏樹氏が『いま平和とは―人権と人道をめぐる9話 (岩波新書)』のなかで、このような平和のとらえ方にたいして、平和の意味を拡張したとらえ方について論じている。
平和の意味を拡張した把握で最上氏があげているヨハン・ガルトゥングの構造的暴力論によれば、人を殴ったり殺したりする直接的暴力でなく、望むべくして望んだものでなく不利益をこうむることを構造的暴力とよび、構造的暴力の存在を「平和ならざる状態」とみている。
最上さんは構造的暴力論を、それまでの平和論の見落としていた点を浮き彫りにし、新たな地平を開くものだと積極的に評価している。それまでは「戦争のないこと」が「平和」だとされていたのに対し、構造的暴力論は、戦争がなくとも「平和ならざる状態」が存在しうるという視点を提起し、理論化するものだといえる。
平和の意味の拡張とは、要するに貧困や開発や人権や平等など、非軍事的な問題に関心をむけ、その総体によって平和をとらえることを意味している。だから、「平和ならざる状態」とは、アマルティア・センが主張する「人間の安全保障」の不在を別の表現で論じたものだと考えられる。
この立場にたてば、日本には戦争はなかったが、「平和ならざる状態」も厳然としてあるのではないか。
たとえば沖縄は、望むべくして望んだものでなく不利益を甘んじて受けざるをえなかったし、今日の貧困の実態、格差の広がりはそれを実感させるに余りある。
なにしろ平和と人権は常に分かちがたく結合しているのであるのだから。