孤独死がなくならないのは…


(上)地域も行政も 見守り気配り*1


地方都市に住む私の周りでも高齢化はすすみ、市内のある行政区では世帯の概ね30%が高齢者世帯という状況だ。だから、一人ひとりの高齢者の生活を視野に入れ、それを守ろうとする地域の意思があれば、その眼は、個々の高齢者世帯のそれぞれについて目配りをいかにいきとどかせるか、という方向に向かうにちがいない。なかには、機会されあればいつでも牙をむく強者のなかにあって、守るべき自由やプライバシーも何もなく、無防備でただ貧困の中に生きる人も存在する。
孤独死、とくに独居老人の孤独死がしばしば報じられる(以下、独居老人の孤独死を念頭においてすすめる)。孤独死をなくすには、できるだけ老人との接触の機会をふやす以外にないのか。実際には、こんな工夫がされているようだ。地域の住民がドアをノックし応答を確認する。少しシステム化した場合で、たとえば無事であれば黄色い布を団地のベランダに分かるように一人暮らしの本人がさげておくというシステムがつくられている団地の経験を以前聞いたことがあった。こんな簡単な取り組みであっても、それがネットワークとして現実に機能するからこそ、地域で孤独死から高齢者を守る少なくとも最低の条件はできあがる。
考えてみると、こうした取り組みは、ある種の行動・事象を事前にコントロールするということにほかならない。事前規制である。

しかし、一人暮らしの中には、単に相手がいない/いなくなったというだけでなくて、さまざまな事情で独居を選ばざるをえなかったり、あるいは自分で好きなように暮らしたい、世間の干渉を受けたくないなどの理由で一人暮らしをしている人もいるだろう。この人たちにとっては、守るべきは自由であり、プライバシーなのである。その人たちが自由やプライバシーをいったん選べば、ドアのノックもなくなり、黄色い布を下げるという行為からも解放される。監視や規制から免れ、見えない空間と時間を手に入れるのだが、片方で孤独死というリスクを抱え込まざるをえない。自由の代償としてリスクを引き受けるわけである。
孤独死がなくなるということは、すなわち自由やプライバシーを横に措くということだ。

孤独死が問題としてあるのは、簡単なはずの解決が他の価値と衝突するからなのだろう。裏返しにいえば、先にあげた守るべき自由やプライバシーも何もない、無防備でただ貧困の中に生きる人たちにたいして、自由と拮抗するはずのリスクをあらかじめ排除するのは、事前規制にほかならない。そこに行政の責任が存在するといえないか。

*1:リンク切れ>ここ