「知性の劣化」って何?



福田内閣支持率50%超に見る日本人の知性の劣化


エントリのタイトルにあるように福田内閣の支持率が50%を超えたという事象をとらえて、id:kojitakenさん(以下、氏)が「日本人の知性の劣化」に言及されている。以下の点に疑問をもった。一つは内閣支持率でそれをみるということにたいする疑問。もう一つは、「知性の劣化」の実体について。
もともと内閣支持率という特定の時点の値を論じてもそれほどの意味があるとは私には思えない。たとえば支持率50%という調査結果が示すのは、その時点で調査対象者のうち半分の人が内閣を支持すると表明したという事実のみである。「どんな内閣であっても、発足当初は支持率が高めに出るものではある」と氏自身がいわれるように、支持率は就任時には高く出て、次第に下がっていき後任との交代時期には低くでるのが経験則だろう。現に、データ*1によれば、その傾向は明らかだから。むしろ支持率に意味があるとすれば、その推移をみることだろう。そこに有権者の意識動向が現われ、「法則」がみえてくる。ましてや、その支持率が50%を超えるか、超えないかを劣化の分岐点とするのなら、ここに至ってもう違和感はぬぐえない。

「知性の劣化」はそれではどこではじまったのか。知性が劣化したのなら、この問いにたいする言及があってしかるべきだが、それは明確でなく、上にあげた引用につづく、以下の表現にとどまっている。要は、小泉政権以降ということなのか?

小泉純一郎内閣以来、その傾向が異常になってしまっている。国民の批判能力が落ちている、というより国民の知性が劣化していると思う。

つまるところ「知性の劣化」は支持率に反映するというわけだ。その結果、「知性の劣化」の要因を「B層」に求めている。そして非難の対象に仕立てておられる。こんな具合に。

自分の考えがなく簡単に流されてしまう人たちに対しては、知的訓練が欠けていると非難したい。

私たちには、思想・信条の自由がある(ということになっている)。日本国憲法*2は、これを明記している。けれど、これだけでは日本国民が思想をわがものにし、信条を身につけることはできない。この限りでは自由ではないといえるかもしれないし、ことばを換えれば、制限の欠如だけを意味しているともいえる。思想・信条の自由を獲得するには、そのための前提が必要なのである(想定されている「知的訓練」なるものもその一部か?)。ちょうど、表現の自由はあるのだが、その自由を発揮するには、絵の具が必要であり、カンバスが必要なのと同じことだ。その前提を獲得できるかどうか、そこにはあらかじめ個人のおかれている条件に社会的な差異がある。
氏が「B層」とよばれる部分はたとえば、そもそも選びうる情報が限られているし、選びえない環境下に置かれている、とまずみておく必要があると私には思える。

情報化社会といわれる今日、国民の意識状況に与えるメディアの影響は無視できない。情報操作の構造がある。そこに眼をむけるべきだ。メディアを支配する勢力を相手にすることはむろん容易ではない。が、「B層」を排除しても失うものはあっても何も生まれないし、おそらく氏も願う自民党政治をかえていく上ではそれが障害になるだろう。
何よりも「知性の劣化」(という表現)と特定の党派や内閣の支持率とからめる論議の危険性を私は感じている。結局はそれが特定の層の排除につながるというのだからなおさらである。
つきつめていえば、この視点の是非を問わないといけないのだろう。

*1:たとえば前田幸男;時事世論調査に見る内閣支持率の推移(1989-2004)

*2:第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。