内橋克人氏が描いた「悪夢のサイクル」
きのうは今日と違い、今日は明日と違うのです。
しかし、目にみえないゆるやかな変化を人が気づくことはなかなかありません。
1週間前のあなたが世界をどうみていたのか、世界がどうあったのかは、今日のあなたがどうであったのか、そして1週間の世界がどうであったのかとはほとんど変わりがないようにみえます。(プロローグ)
こんな書き出しで本書『悪夢のサイクル―ネオリベラリズム循環』(内橋克人・文藝春秋社)ははじまる。
この書き出しを読んで、マルチン・ニーメラーの言葉をにわかに思い出す人もいるだろう。ニーメラーの言葉はよく知られているように、ファシズムに世の中が移行しようとするその姿を表したものだ。世の中はかわっていくが、その際の一つひとつの小さな変化に、すでに本質的な変化が含まれていることをそれは示している。また、少しの変化に気づいてはいても、わずかの変化だから、と考え、眼をつぶろうとする人間の心理を、それでよいのかと問いかける言葉でもある。わずかの変化をみのがしてはならない。
おそらく内橋氏は同じ立場で、先の一節を書いているのだろう。わずかな変化を見通せなかった日本でも、さすがに10年、15年と時が流れていけば、もはや誰の眼にもその変化、ちがいが分かるようになった。無視できなくなった。
しかし、格差が単にそこにあるということではない。格差社会という言葉で表され皆が思い浮かべるのは、その格差が広がり、普遍化している今日の事態だろう。日本の社会が単純に二極化されているわけでもない。これから一握りの高額所得者と、そうではない層に、分りやすくいえば分断させる社会に移行しようとしているのである。大多数の一方の側は、この意味で貧困化に向かうといっても過言ではないだろう。
これからの日本の姿をおよそこのように描くことができるのだろうが、著者・内橋氏は日本の未来図をすでにみていた。同氏はそれをアメリカに求めたのだ。70年代のアメリカでの政策的変化である。
当時、アメリカでとられた政策はほとんど今日の日本で具体化されているものと同じだ。列挙すれば、1.規制下にあった産業を自由化する、2.累進課税をやめる、3.貿易の自由化だ。3を除けば、日本がアメリカの後追いをしていることがただちに分かる。
氏があげる、アメリカでとられた政策によってもたらされた結果はドラスティックだ。
1959年に上位所得者トップ4%の総収入は、下位所得者の下から35%の総収入と同じだったという。それが規制緩和後の91%には、トップ4%の総収入は下位51%の人びとの総収入と等しくなった。これこそ先にのべたように単純に二極化されているわけでなく、二極分化がすすみ、上に行くのはわずかだということだ。日本もそのあとを追い、同じような変化を辿るというわけである。
内橋氏が著した『悪夢のサイクル』は、このように、日本に格差社会をもたらす結果になった新自由主義=市場原理主義を料理する。同氏にはすでに『規制緩和という悪夢』という書物もあるので、本書はその続編ともいえる。
この『悪夢のサイクル』は8章からなるが、私はその論点を大きく4つの部分に分けることができると考えている。
「規制緩和」を戦後の官僚支配を打破する特効薬といて錯覚したこと- 学者をメンバーにいれた一見中立にみえる政府の審議会、あるいは首相の私的(!)諮問委員会の口あたりのいいキャッチフレーズにまどわされたこと
- これら審議会の意見を大きくアナウンスしたマスコミの存在
- 小選挙区制度の導入
そして、本書のタイトルである「悪夢のサイクル」が解き明かされる。著者は、アメリカ、南米、アジア、そして日本、1960年代から起こった変化の波を俯瞰して、「ネオリベラリズム(新自由主義)循環」あるいは「市場原理主義の循環運動」とでもいえる一つの「法則性」があるという仮説を立てる。これは、佐野誠氏*1によって、アルゼンチンの80年代以降の経済研究をもとにした「ネオリベラリズム・サイクル」と名づけられることになる。
それではこれにどう打ち勝つのか。それが、第8章に示されている。氏はそれを「国家でもない、市場でもない、第三の道がある。国家が市場を計画し、すべてをきめるのではなく、市場が人間を支配するのでもない、第三の道。それは、人間が市場をつかいこなすという道です」と説いている。新自由主義は、それ以前の経済政策を「国家が市場を計画」と表現すれば、いうまでもなく「市場が人間を支配」するといえるだろう。
その上で北欧の経験も紹介しながら、氏は「市民参加型資本主義」という、「市民社会的制御の下に市場メカニズムというものを置き、その市場のメカニズムの幸福を増してゆく方向」を提起している。要するに、人間が市場をつかいこなすのだ。
本書は、このように検討するに足る論点がいくつも提起されている。議論はこれからだろう。だが、はっきりしているのは、これは、国民自身が深め、決めなければならないということだ。
内橋克人氏は本書の末尾で「賢者の勇気」の話に言及している。話は元に戻るのだ。歴史と現実をみつめることをやめれば、どんなに奮い立ってもそれは「愚者の勇気」にすぎないだろう。氏は、そうではなく、すこしの変化をもみすえるような、歴史と現実を見る眼をもとうとよびかけているのではないか。
*「花・髪切と思考の浮游空間」;「悪夢のサイクル」 −格差社会にどう立ち向かうのか、を一部改変した。