情報弱者のことを少し。


情報弱者が存在する。
というのは、情報技術の恩恵を受けることのできる人とできない人との間に格差が生じているということだ。高度な技術を得るためにはお金が要るわけだから、これは経済格差だ。その上に、誰もが情報量を増やせる環境のなかにあったとしても、知識格差は解消せずに、むしろ拡大するだろう。高度な技術の恩恵を受けることができ情報量をふやせる人は、恩恵に預かることができない人との情報量にくらべれば、比喩的にいえば級数的に量の拡大をやりとげるだろうことは容易に想像がつく。
たとえば、実際に情報量をふやすには大量の情報のなかから選別する能力が不可欠だ。それに慣れない、習熟していない人とのちがいは歴然としてくるのであって、情報処理能力は二極化する。だから、それはその人たちの生活にも大きな差異をもたらすと考えることができる。


小泉郵政選挙自民党広報戦略に位置づけられのが大勝したとあって、いまだにこの呪縛から逃れられない人もいるようだ。スリードの手によってつくられたB層。ポピュリズムと結びつけられ語られてきた。スリードによれば、相対的にIQが低く、同時に構造改革に中立か肯定的、要は否定的でない層をこう呼んだ。この層を貶めることは容易だし、現にブログのなかでそんな者も散見された。

が、冒頭の情報弱者という観点からこれをとらえられないか。今日、高齢者と家庭に残された子どもたち、主婦をはじめ情報弱者のメディアといえば、テレビだろう。
B層という言葉にはもとより選別が含意されているが、支配層はそれを囲い込もうという戦略を立てたのだ。社会を統合しようとした。われわれが何らかの社会運動に少しでもかかわるのであれば、支配層のように統合するのではなく、彼らと共同することで、それこそ戦略もみえてくるというものだろう。

これに気づかず、B層、B層といつまでも蔑む者には、たとえ権力にむかって発せられる言葉がどんなに過激であろうとも、弱者の立場にたちえない醜悪さを私は感じる。敵の敵は必ずしも味方ではない。