「裏切者としてのデビュー」と小熊の眼


小熊英二の著書『日本という国 (よりみちパン!セ)』のなかに「『国の誇り』だった第9条」という項がある。そのなかで小熊は『新しい憲法のはなし』を紹介している。
小熊の言葉を借りれば、戦後の日本は、資本主義と天皇を残したままではあったけれど、民主化と軍備撤廃をすすめていった。そしていまの日本政府の姿勢からすると信じられないような話だけど、1947年や48年ごろには、当時の文部省が『民主主義』や『新しい憲法』と題した社会科の教科書を出して、民主化憲法9条の理念を広めようとしていたのだ。
『新しい憲法のはなし』が「日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」とのべていることにふれて、小熊は、当時は第9条をはじめとする日本国憲法は「日本の誇り」とされていたといっていい、とのべたのだった。この『新しい憲法のはなし』はむろん小・中学生向けだし、そして小熊自身の『日本という国』の対象とする読者も中・高校生だが、政治が改憲も視野に入れてすすんでいる今日、2つの読本は読み返されてよいと思う。
たしかに参院選の思わぬ大敗で「平時」とは異なる対応を自民党は迫られている。だが、私は今この時期を以下のように考えている。

弓をきりきりと引き絞り、腕の力で弓を支える。とにかく力がいる。いったんそれを緩めようものなら、的にねらいを定めた矢はたちまちその方向を失うだろう。要するに、力を保ったまま、緊張が強いられる、とてもしんどい時間にほかならない。そう私は考えている。
しかし、相手にしてみれば、この時期ほど怖いものはないのかもしれない。鋭い眼光で見据えられ、そして恐ろしく尖った矢が自分をいまにも射抜こうとねらっているのだから。こんな相手との張り詰めた関係があればこそ、われわれは力を発揮できる。弓を精一杯引いておくことができる。周囲に気をとられることなく、相手をしっかり見据えておくことができるのだ。

その小熊は、この『日本という国』という本の末尾で、慧眼にも丸山真男のつぎの一節を引用し、しめくくっている。

思えば明治維新によって、日本が東洋諸国のなかでひとりヨーロッパ帝国主義による植民地乃至半植民地化の悲運を免れて、アジア最初の近代国家として颯爽と登場したとき、日本はアジア全民族のホープとして仰がれた。……ところが、その後まもなく、日本はむしろヨーロッパ帝国主義の尻馬にのり、やがて「列強」と肩をならべ、ついにはそれを排除してアジア大陸への侵略の巨歩を進めて行ったのである。しかもその際、日本帝国主義の前に最も強力に立ちはだかり、その企図を挫折させた根本の力は、皮肉にも最初日本の勃興に鼓舞されて興った中国民族運動のエネルギーであった。つまり日本の悲劇の因は、アジアのホープからアジアの裏切者への急速な変貌のうちに胚胎していたのである。敗戦によって、明治初年の振り出しに逆戻りした日本は、アジアの裏切者としてデビューしようとするのであるか。私はそうした方向への結末を予想するに忍びない。(「病床からの感想」)

丸山の、裏切者としてのデビューにたいする懸念はまた、まさにいま私たちの生きる現代をとらえているのではないか。そのことを小熊は我々にむかって発信しているのだろう。

注;「当時は第9条をはじめとする日本国憲法は『日本の誇り』とされていたといっていい」という小熊の言及に関連する箇所は以下。

みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争は終わりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんあっただけではありませんか。・・・…
そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。……しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまではゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。
  −『新しい憲法のはなし』