『茶色の朝』と日常に身をまかせること


透きとおるように晴れわたった空をみて、それを茶色だという人はいないだろう。しかし、それを強制される仕組みができあがったらどうなるのか。私なんかは、ただちに色彩感覚をさも失ったかのごとく以降、「ポストの色は赤、雪は白い」ということすら躊躇するのかもしれない。言語回路が切断されたような錯覚がしてならないだろう。要するに、「恐怖」のために何色だと言葉を発することさえできなくなってしまうのではないか。
だが、これは単なる起こりそうもない話と突っぱねることはできない。日本のいまの動いている状況をじっくりみわたせば、その可能性がまったくないわけではない。つれあいが薦めてくれた『茶色の朝』という本はそれをテーマにしている。
話の主人公、俺はシャルリーと一緒にコーヒーを味わっているところから、この寓話ははじまる。

俺とシャルリーは、とくに何を話すというわけでもなく、お互い顔に浮かんだことをただやりとりしていた。
それぞれ相手がしゃべる中身に
たいした注意は払っていなかった。
コーヒーをゆっくり味わいながら、時の流れに身をゆだねておけばよい、心地よいひとときだ。
シャルリーが犬を安楽死させなきゃならなかった
と言ったときはさすがに驚いたが、ただそれだけだ。

静かに時が流れ、そのなかにゆったりと身を置いておく。こんな日常がしだいに変わっていく。すでにその予兆はこの一節の中にも現れている。
この寓話の背景には、1980年代以降の極右政党・国民戦線の台頭がある。作者・フランク・パヴロフが本書『茶色の朝』を書いたのは、フランス社会がやがて茶色に染まっていくのにたいする不安とそれへの抵抗を喚起するためだ。これを理解するには、フランス人にとって茶色のもつ意味を予備知識として入れておく必要がある。本書には、高橋哲哉氏による秀抜なメッセージ「やり過ごさないこと、考えつづけること」が加えられている。
それによれば、フランス人にとっての茶色brunとは、つぎのようにナチスを連想させる*1ものらしい。

話に戻ると、犬の安楽死に驚いたものの、「ただそれだけ」と主人公・俺はやり過ごしていく。安楽死とは、「ペット特別措置法」で茶色でない犬や猫が処分されることをさしている。だが、そんな中でも、不安を感じつつ茶色に守られている心地よさを感じ、時は過ぎてゆくのだ。そして、だからこそ、この寓話の最終盤で、主人公・俺はこう考えなければならなかった、こういう結末を迎えざるをえなかったのだ。

ひと晩じゅう眠れなかった。
茶色党のやつらが
最初のペット特別措置法を課してきやがったときから、
警戒すべきだったのだ。
けっきょく、俺の猫は俺のものだったんだ。
シャルリーの犬がシャルリーのものだったように。
いやだと言うべきだったんだ。
抵抗すべきだったんだ。
でも、どうやって?
政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、
毎日やらなきゃならないこまごまとしたことも多い。
他の人たちだって、
ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?

だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。
……
陽はまだ昇っていない。
外は茶色。
そんなに強くたたくのはやめてくれ。
いま行くから。

この主人公・俺をわが身に置き換えてみるがよい。だれでもがこの俺にすり替わることはそんなにむずかしいことではない。いまの日本社会は、こんな条件を次第につくりつつあるのではないか、われわれがこの俺になる条件を。
本書はとても短い。そして、はじめて日本版にヴィンセント・ギャロの挿絵「Brown Morning」がつけられたという。この挿絵が楽しい。何よりも全編が、マルチン・ニーメラーの言葉(別エントリー)を想起させる構成となっている。
ファシズムにたいする直接的批判や告発を本書は含まない。だが、そのことで逆に絶妙なファシズム告発、全体主義批判となりえている。

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フランク・パヴロフ『茶色の朝』(大月書店・メッセージ:高橋哲哉、訳:藤本一勇)

*1:ヒトラーに率いられたナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党)は、初期に茶色(褐色)のシャツを制服として着用していたので、茶シャツ隊 les chemises brunes はナチスの別名になったのです(もっとも、細かいことを言えば、後にナチス党内で勢力を強めたヒムラー率いる親衛隊SSが黒の制服を着用したため、「茶シャツ」は、ヒトラーによって粛清されるレーム率いる突撃隊SAに限られた征服になりました)。「茶色」は、ナチスを連想させるだけではありません。そのイメージがもとになり、今日ではもっと広く、ナチズム、ファシズム全体主義などと親和性をもつ「極右」の人びとを連想させる色になっています = 以上、メッセージから引用 ==