『メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書)』(佐藤卓己)紹介

私たちはテレビやインターネットや携帯電話に囲まれたメディア社会の生活を自ら捨てることはできないだろう。その軽薄さを「古きよき里山」の基準から批判するのは容易である。しかし、それは多くの大衆文化批判と同じく、リベラルそうに見えて傲慢である。その高貴な精神の背後には変化に対する怯懦と他者に対する不寛容が見えかくれしている。変化を受け入れ他者に向き合うためには、メディア社会の現実から目を背けるべきではないのである(「はじめに」から)。

この佐藤卓己の言葉にてらせば、不器用で急激な変化についていけない私などは、新しいメディアの登場につい躊躇してしまう。その流行の兆しがみえはじめた頃、忘我の境地でケータイの画面をみつめる若者たちをどうみてきたのか、結果的に目を背けてきたのではないだろうか。むろん今はちがって、自らそれが欠かせない生活になったのだ。
著者によれば、メディアとは「出来事に意味を付与し体験を知識に変換する記号の伝達媒体」である。今日の消費社会にあっては、すべてのモノ、コト、ヒトが広告(情報発信)の媒体となる社会である。すなわちすべてのモノ、コト、ヒトがメディアともいえる時代にわれわれは生きている。つまるところ、メディアを読み解くことは、モノ、コト、ヒトの関係性に着目し分析する、この上にしか成り立たないといえるだろう。

メディアも時代とともに変容する。その際、つぎの著者・佐藤の言葉は重要である。

情報のボーダレス化がさらに加速化する現在、楽天的な統合のメディア論に浮かれることなく、メディアによる文化的細分化の機能に目を向けるべきではあるまいか。実際、出版資本主義の進展は大量出版によって人々が共有する教養の体系を消滅させ、国境を越えた無数のオタク文化を誕生させた。その一方で、これまで国民的アイデンティティを支えていた地域共同体、家族などの中間集団は解体の危機に瀕している。ネット資本主義は「2ちゃんねる」などの新しいナショナリズムの流行という表層的な現象で語られがちだが、より深刻なことは足元において進む伝統的な近隣共同体の解体である。

それは、メディアの機能が結合や統合ばかりでなく、切り離す方向でも作用するからだ。
たとえば、「電話は一方で空間を超えて人を結びつけることができるが、他方で家庭の団欒中に闖入し家族の対話を分断する」機能を著者はあげている。
本書は新聞連載50回分をもとにまとめ直したもの。小泉政治ライブドア事件も題材としてとりあげられている。
そもそも誰もが耳にするメディアとは何か。誰もがその中にいるメディア社会とは何か。それを読み解く格好の入門書といえる。