『僕はパパを殺すことに決めた』と権力


奈良県で母子3人が死亡した事件を扱った本*1に供述調書が引用されたことにたいして、奈良地検強制捜査に乗りだした。
本は、放火したとされる長男の供述調書や鑑定書をほぼそのまま引用したとされている。捜査の対象は、精神鑑定医と著者の草薙厚子氏。医師は、それを漏洩したという疑い。
少年の調書漏洩の疑い、鑑定医を捜査へ 奈良・放火殺人朝日新聞電子版9月14日)
問われるのは強制捜査の是非だが、たとえば毎日新聞社説。社説が強調するのは、言論・表現の自由である。
従来からの論点で、それにしたがえば思想や内面のイデオロギーの排除、その表現行動を権力が排除してきたのだ。今回の強制捜査までの法務省の動向をこうとらえられないわけではない。

当事者間の解決がまず追求されるべきだ。なぜそれができなかったのか。
法務省強制捜査前にすでに勧告書*2なるものを出している。そこで、本の出版はプライバシーの侵害および人権侵害と断定し、謝罪を求めている。
その上で今回の強制捜査を強行したことに意図的なものを感じる。大げさにいえば、勧告から強制捜査という「解決の筋道」を既定路線にしてしまうのではないかという恐れである。

それは、この本の著者の創作活動や表現行動の限界や弱点を結果的に利用したものではないかと思えてならない。著者の取材活動や表現の方法は、著者がどのように事件をみて評価をくだそうとしているかということと無関係ではない。要はそこに著者の視点が貫かれている。この本の著者の、たとえば繰り返される少年犯罪などにたいする視角に関しては、厳しい批判がある*3。要するに、著者は、少年の犯罪にたいする不安を増長させるだけで、背景に社会的要因があることに迫っておらず、むいろ欠落させ、あるいは無視していることにたいする批判だといえる。
まさにこの本もこんな角度から著そうとすると、いきおいただ今回の事件の供述調書や鑑定書の細部に関心は集中するだろう。

こんなことも考えるのだが、それでも強制捜査という「解決方法」に権力の排除をみざるをえない。その上で、より警戒しないといけないのは、内なるフィルタリングではないか。

*1:『僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真実』

*2:法務省勧告にたいして、日本ペンクラブが見解を発表している。 http://www.japanpen.or.jp/seimei/070830.html

*3:たとえば後藤和智氏。 http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2005/11/post_83d9.html