「一億総中流から格差社会へ」のおかしさ
佐藤俊樹氏の著書名『不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)』に象徴的なように、一億総中流から格差社会へという理解*1が少なくなくあるようだ。
この理解の前提は、一億総中流の存在が事実でなければならない。それだけではなく、中流が崩壊したという事実を要する。
けれど、一億総中流は70年代から80年代に、国民のなかにあった自分は中流だという意識を指し、その一方で、資産をもち、経済的にも(ほどほどに)自立した状態を中流だとすれば、国民の9割までが「中流」を意識するという結果は、要するに幻想にすぎない。「下」は1割に満たない。
おそらく少なくともバブルがはじける頃までは幻想はつづいたのだろうが、総中流という幻想を仮に実態だとしても、どこでこれが消失し格差が生まれるようになったのか、その契機となるものが説明されるべきだ。
冒頭の理解が成り立つには、それが要る。
この理解はまた、総中流という(幻想の)時期にも階級や地域、性別による格差があっただろうに、という疑問を抱かせる。要は、これらの格差や差別を覆い隠すことにもなっているということだ。
格差社会以前の格差にこうして眼を閉じる立場は、格差社会のなかの格差の是認に収斂せざるをえない。その結果、佐藤氏は、たとえば「私たちは自己責任型の社会への意向を余儀なくされている」というところに落ち着くのである。
けれど、この自己責任論とやらは、おかしな議論である。たとえば、およそ社会科学は成り立たないだろう。社会のすべての事象、問題が個人に還元されることになれば、すべてが予測不可能、偶然の世界に収斂されるからだ。
社会科学に意義を認めるものは、自己責任論者であってはならない。となると、自然科学真理教信者*2は案外、自己責任論の支持者たりうるのかもしれない。