日米同盟という言葉と鈴木善幸


鈴木・レーガン首脳会談*1が1981年5月おこなわれ、日米共同声明が発表された。
声明にはつぎのようなくだりがあった。

首相と大統領は、日米両国間の同盟関係は、民主主義及び自由という両国が共有する価値の下に築かれていることを認め、両国間の連帯、友好および相互信頼を再確認した

この声明で、はじめて日米同盟という言葉が使われた。戦後、日米同盟という言葉は公然と使われることはなかった。
広辞苑によれば、同盟とは、第三国に対する攻撃又は防御のために総合に援助する(条約)である。だから、明確に軍事同盟を指している。

日米同盟が使われなかったのは、日本国憲法日米安保条約が併存するという条件があったればこそである。
日本憲法国のもとでは、日米安保条約は、日本が他国から侵略を受けた場合のみ、アメリカが日本を防衛することが取り決められてきた。米国と自衛隊の「武力行使」は一定の制限を受けてきた。集団的自衛権の行使が禁止され、日米安保条約を攻守同盟とすることはできなかったのである。

そもそも安全保障条約の締結は、攻守同盟をふつうは指すだろう。
要は、日米の支配層は戦後ずっと、攻守同盟化を課題にしてきたといえる。鈴木・レーガン首脳会談はこの意味で、2つの法体系の併存がもたらす「矛盾」を解こうとする、支配層のはじめての試みであったといえる。

安倍首相がはじめての所信表明で公然と同盟を語り、テロ特措法延長問題が焦点となっている今日、こんないきさつもまた、思い出される。

*1:声明の発表後、鈴木善幸は(日米同盟に)「軍事的意味合いは持っていない」と応え、波紋をよんだ。この発言にたいし、高島外務事務次官(当時)は、「軍事的な関係、安全保障を含まないというのはナンセンス」と発言。鈴木は、「同盟関係とは日米関係を一般的に指したもので、日米軍事協力の一歩前進といった言い方はまったく当をえたものではない」という政府見解(81年5月13日)をのべたが決着せず、伊東正義外務大臣と高島次官が辞任して終結した。つぎの中曽根・レーガン首脳会談では「同盟」という言葉は消えている。