貧困を語るときの盲点


右であろうと、左の立場からであろうと格差社会を論じる書物が書店に並ぶようになって久しいが、メディアをとおして格差が伝えられても、めずらしく感じることもなくなった。それほど、格差が言葉として熟してきたということだろう。
そして、最近も、生活保護を「辞退」し悲惨な結果に結びついたことを知らせる報道にふれた人も少なくないだろう。まさにこの事例は貧困とはひとたび生活の歯車が狂うと、誰もが直面するものでもあることを示した。これを、私たちはどのようにとたえたのだろうか。格差社会はよくない、ただされないといけないと考える人も、自分はこうはならないとちょっとでも考えなかっただろうか。


朝日新聞記事(7・11)を引用すると、

今春、事務所が病気の調査をしたうえで男性と面談し、「そろそろ働いてはどうか」などと勧めた。これに対し男性は「では、働きます」と応じ、生活保護の辞退届を提出。この結果、受給は4月10日付で打ち切られた。この対応について男性は日記に「働けないのに働けと言われた」などと記していたという。

この男性の言葉、「働けないのに働けと言われた」に正直、ツッコミを入れたくなった人もあるのではないか。働くことは可能ではなかったのか、「働きます」と応じながら、そう言って辞退したのだから本人のせいだろう、と。いわゆる自己責任論だ。
しかし、貧困に直面する人にとって、彼・彼女を守るものは何もない。無防備だといえる。そして周囲はすべて、機会さえあればいつでも牙をむく強者であるだろう。選びようのない状態が、すなわち貧困な状態だといえる。彼らは、だから精神的にもその日暮らしにならざるをえない。


私は別のいくつかのエントリーで、もう一つの可能性ということをいってきたが、彼らにはそれはない。逃げることすらできないのだ。
そして、格差が仮に語られても貧困が一つのテーマとして表出しないのは、実はこの自己責任論によっていると私は思う。貧困が語られないのは実は私たちのどこかにそれが潜むからだ。
これを乗り越えたところに、貧困な状態にある彼・彼女らにむけられるまなざしがある。


だから、私は、つぎの言葉を心底から嫌悪する。

格差社会と言いますけれど、格差なんて当然出てきます。仕方がないでしょう、能力には差があるのだから
経営者は、過労死するまで働けなんて誰も言いませんからね。ある部分、過労死も含めて、これも自己管理だと私は思います  
…… 奥谷禮子(株)ザ・アール社長