報道不信と情報を請求する権利


メディアが右からも左からも批判を受けている。あるいは、権力と市民からの厳しい批判にメディアはさらされているともいえるだろう。

下記ブログへのアクセスの推移をみてみると、1月に公開した納豆ダイエット捏造番組にみるマスメディアへ一定のアクセスがいまでも続いている。この記事では、もちろん番組「発掘! あるある大事典?」の捏造について言及したものだが、この捏造に限らず、今日共通する報道のあり方、そしてそれを生み出す構造などに少しふれた。
アクセスが続いているということは、読者の皆さんがさまざまな立場から今日のメディアのあり方を考えておられて、どのように報道に接していくのか、模索されているのではないか、と推測するのである。

弁護士の梓澤和幸氏は、つぎのようにのべている。

ジャーナリズムの本来の役割は、権力監視であり、人間の社会環境の監視です。民主主義社会の権力とは、議会の多数派、市民や住民の多数派によって支えられた権力です。ジャーナリズムが、真摯にその使命を達成しようとすると、少数者が切実に必要とする真実、多数派によって隠蔽された真実を明らかにすることになります。それはときとして、多数派のもつ理念、意思、感情と、矛盾や衝突を来すことになりますし、それを貫いてゆけば、多数派の読者、視聴者によって好まれることにはならないでしょう。それでもあえて本来の役割を貫く覚悟がメディアの経営者たちに求められているのです。(『報道被害』198−199頁)

この立場にたって考えると、私たち市民に求められているのは、みずからの社会と運命をえらびとっていく主体として権力や社会環境などあらゆる分野への関心を高め、報道と取材に反映させていく力をつけることになる。
しかし、そうした場合、為政者のもつ情報と市民の知る情報の間に大きな差が現実にあるという問題を避けることはできない。この差を埋めるために、メディアがあるのではないだろうか。それを担保するために表現の自由が存在しないといけないのだろう。


社会と私たち自身の将来を私たちがえらびとるための機会の一つが選挙だ。
ところが、選挙を前にしてメディアの報道は、はたしてどうだろうか。新聞記事も、TV番組も、まるで二大政党の選択しかないかのような編成だと私は受け止める。
えらびとるためには、メディアと政府にたいして市民の側は積極的に必要な情報を請求する権利がある、というとらえ方に立たざるをえないだろう。
自らの社会と運命をたとえば二大政党への選択に賭けようと、賭けまいと、選びとるに足る情報が獲得できる現状にないことをまず問わねばならない。
現状はむしろ、意見形成について著しい干渉を受けている、と思えてならないのだ。極論すれば情報の操作の中に私たちはある。
そこにも、メディア不信があるのだ。



◇「花・髪切と思考の浮游空間」の記事の表記を一部あらため再掲した。